山 形 城

山 形 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


山形県山形市霞城町3
霞城、霞ケ城、吉字城
輪郭式平城
1356年
斯波兼頼
最上義光、鳥居忠政
石垣、堀、移築門、移築御殿
国の史跡

2010年7月3日

山形城は、東北本線山形駅の北方約400mに位置し、三ノ丸の広さが235万m2もあり、奥羽地方では最大規模で、日本国内でも5番目の広さがありました。
現在は二ノ丸部分が「霞城(かじょう)公園」として整備されています。霞城の名前は、関が原の戦いに連動して米沢城主・直江兼続の上杉軍が山形へ侵攻した長谷堂合戦の時に、山形城に霞がかかり、山形市内の西方にある富神山麓に陣を張った上杉軍から城の位置が見えなかったことに由来するようです。
1356年に羽州探題として斯波兼頼(しばかねより)が山形に入り、1357年に初期の山形城を築城します。
1357年に初期の山形城を築城します。
その後、最上義光の代に大幅に拡張、整備され、関が原の戦いで功績があったため石高が57万石に増え、最上氏の本城となりました。

東側堀沿いに東北本線が走る

1622年に最上氏が転封され、代わって鳥居忠政が入り、改修が行われました。
1636年に鳥居氏が転封された以降は、保科氏、越前松平氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、大給松平氏、秋元氏、水野氏と、めまぐるしく藩主が交代となり、その度に石高が削減され続けたため、幕末期には維持することができず、本丸は更地に、御殿も二ノ丸に置かれ、三ノ丸の西半分は田畑になるなど荒廃が進んでいきました。
明治時代には、城が売出され山形市が購入しましたが、陸軍の駐屯地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三ノ丸も埋め立てられ耕作地になってしまいました。
1991年に二ノ丸東大手門が、2006年に本丸の一文字門に架かる大手橋が復元され、現在も本丸周辺の復元工事が進んでいます。

二の丸東大手門(復元)

南門跡

南門跡

本丸一文字門石垣・空堀

本丸一文字門石垣等復元現場

大手橋(復元)

一文字門跡

最上義光騎馬像

二の丸東大手門

二の丸東大手門内部

北門跡

西門跡

西門石垣

南側土塁

南門

南門

南側の堀

東側の堀

二の丸東大手門の橋

首洗い石鉢

天正12年(1584)、義光が谷地城主・白鳥十郎長久を斬殺し、首をのせたとされる石鉢

義光の代に植樹されたらしいキャラボク

山形市郷土館(旧済生館本館)

明治11年(1878)に県立病院「済生館」として建築。西洋造3層楼の擬洋風建築で、昭和41年(1966)に国重要文化財に指定。昭和44年(1969)に現在地に移築、昭和46年(1971)に「山形市郷土館」として開館。