二本松城
福 島 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
福島県二本松市郭内
霞ケ城、白旗城
梯郭式平山城
室町時代中期
畠山満泰
丹羽光重
天守台、石垣、堀
国の史跡
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2010年7月4日
二本松城は、東北本線「二本松駅」の北方、約1kmに位置する「白旗ケ峰」という丘陵に築かれた城です。
城の正門ともいうべき「箕輪門」から山頂の本丸まで約120mの高低差があり、ちょっとした登山気分です。
本丸直下には、千葉県の「月影の井戸」、神奈川県の「星影の井戸」と並び称される日本三大井戸の一つ「日影の井戸」があり、現在も水を満々と湛えています。
室町時代の初期に室町幕府から陸奥国を治める「奥州探題」に任じられていた畠山高国が、最初に住居を構えた「塩沢・殿地ケ岡」の地を「二本松」と改称しました。
その後7代当主の畠山満泰がこの地に二本松城を築きます。
旧二本松藩戒石銘碑
1585年、伊達政宗は、岳父・田村清顕とともに大内定綱を攻めると、定綱と姻戚関係にあった15代当主・畠山義継に対しても攻撃を仕掛けます。
義継は政宗に降伏を申し出ますが政宗は義継を許さず、大名の地位を維持できないほどに領地の大部分を没収しようとしました。
この件は、政宗の父で隠居の伊達輝宗、伊達成実の調停で緩和されますが、政宗を恨む義継は、宮森城に居た輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとします。
これを知った政宗は、高田原で追いつき父・輝宗ともども射殺してしまいます。(粟之巣の変事)
政宗は直ちに二本松城を猛攻撃しますが、義継の子・国王丸を中心にこれに耐えて籠城します。
箕輪門の石垣
1586年に相馬義胤の口添えで二本松城は開城し、畠山氏は滅亡しました。
その後、二本松城には片倉景綱や伊達成実らの城代が入りましたが、政宗が岩出山城に転封されると、会津の蒲生氏郷の支城となり、氏郷は蒲生郷成、町野重仍を城主として置きました。
氏郷に代わって上杉景勝が会津に入ると下条忠親が城代となります。
1600年の関が原の戦いで西軍に付いた上杉氏が米沢城に移封されると、再び蒲生氏が治めることになります。
1627年に蒲生氏が転封され、加藤氏が改易されるまで治めます。
箕輪門櫓
1643年、白河小峰城から丹羽長秀の孫・光重が入城し、この代に二本松藩の藩庁としての偉容を見せるため、本丸に石垣が積まれ、三重の天守を築くなどの大改修が行われ、以後、明治維新まで丹羽氏が治めました。
1868年の戊辰戦争では、二本松藩は新政府軍と戦いますが、主戦力が白河口に出向いている隙を衝かれ、僅か1日で落城してしまいます。
この戦いでは「二本松少年隊」と呼ばれる少年兵も動員され、大半の城の建物が焼失しました。
藩主・丹羽長国は米沢に逃げますが降伏し、石高を半減して藩は存続しますが、1872年の廃城令によって全ての建物が破却されてしまいました。
箕輪門
箕輪門
御殿跡
相生滝
霞池
智恵子の藤棚
七ツ滝
洗心亭
るり池
霞ケ城の傘マツ
二合田用水
搦手門石垣
搦手門跡
アジサイの小径
日影の井戸
本丸下南面の大石垣
天守台に向かう
東櫓台
東櫓台から枡形虎口
東櫓台から本丸全景
東櫓台から天守台
天守台
天守台から西櫓台
西櫓台
丹羽和左衛門・安部井又之丞自尽の碑