佐 倉 城

千 葉 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


千葉県佐倉市城内町
連郭式平山城
鹿島城
不明
鹿島親胤
千葉邦胤、土井利勝
堀、土塁
佐倉市史跡

2009年11月15日

佐倉城は、北西の鹿島川と南西の高崎川に面し、小高い丘に自然の地勢を上手く利用して築城されました。戦国時代に本佐倉城主の千葉親胤(ちかたね)が鹿島幹胤(みきたね)に命じて築城を始めましたが親胤が17歳で千葉一族に反抗して暗殺されて工事は中止されました。その後、千葉邦胤の時に再開されましたが、邦胤も29歳で家臣に殺害され、完成はしなかったようです。
徳川家康の時代になって、命を受けた土井利勝によって完成を見ます。以後、江戸時代はほぼ堀田氏に封されました。
明治維新後の廃城令により建物は取り壊され、その後第57連隊の駐屯地となったので、一層、城の遺構などは無くなってしまったようです。
現在は、佐倉城公園として開放され、敷地の一角には日本の文化、歴史、民俗について総合的に展示する博物館としては全国で唯一の「国立歴史民族博物館」があります。

大手門跡(佐倉中学校正門前)

大手門写真(明治初期撮影)

空堀

三の門跡

三の門写真

三の門跡の解説看板です

見張り台の跡?

見張り台からの展望

土塁

土塁と水堀

出丸跡

出丸跡

出丸から本丸への登り

本丸台所門跡

本丸跡

本丸天守閣跡

銅櫓跡

角櫓跡

一の門跡

一の門写真

正岡子規の句碑
「常磐木や冬されまさる城の跡」


正岡子規は、佐倉を二度訪問し、当時の様子を文章や俳句に残しています。最初は明治24年春の「房総旅行」の際で、2度目は明治27年に開通したばかりの総武鉄道に乗って佐倉を訪れ、城跡を中心に散策しています。句碑は、その時に詠んだ句のうちの一句です。
(佐倉市ホームページより抜粋)

二の丸跡

二の丸跡の紅葉

二の門跡

二の門写真

馬出堀

椎木門跡

椎木門写真

姥が池に下る

姥が池

空堀の底から見上げる