躑躅ケ崎館
山 梨 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
山梨県甲府市古府中町2611
武田氏館
連郭式平城
1519年
武田信虎
徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰
石垣、土塁、堀
国の史跡
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2011年2月26日
躑躅ケ崎館跡は、JR甲府駅の北方約2.2kmに位置し、現在その敷地の多くが武田神社の境内となっています。
甲府は甲斐国守護の武田氏の本拠地であり、武田信昌の代に居館を甲府盆地東部の石和から甲府市川田に移転し、家臣団とともに城下町を形成していました。
その後、1519年に武田信虎の代に甲府盆地中央に近い相川扇状地への居館の構築を始めました。地鎮祭から僅か4ヶ月あまりで、居館が完成する前の状態で移転したようです。
それから武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)に亘る居館として、また府中として機能しました。
広さは、周囲の堀を含め東西約200m、南北約190m、面積約4.6万?uと推定され、外堀、内堀、空堀に囲まれた三重構造で、中世式の武家館でした。
甲府駅南口に建つ武田信玄像
武田晴信(信玄)時代には信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に治め、大きく所領を拡大させましたが、本拠地は要害山城を含む躑躅ケ崎館のままでした。
武田勝頼の代に1575年の長篠の戦いで織田信長・徳川家康軍に破れ、領国支配に動揺が生まれたため、勝頼はその立て直しを図るため府中の移転を計画し、家臣らの反対を押し切って新たに新府城(山梨県韮崎市中田町)を築城して1582年に移転しました。それから間もなく、織田氏による武田征伐によって、武田氏は滅亡してしまいます。
武田氏が滅亡した後は、織田氏の家臣河尻秀隆が躑躅ケ崎で政務をとりましたが、本能寺の変が起き、その後の混乱のなか亡くなり、変わって徳川家康が甲斐国を支配するための主城になります。
この時に拡張整備され、天守閣も築かれました。
しかし1590年に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されると、躑躅ケ崎館は廃城となりました。
躑躅ケ崎館の全景模型
南西側の堀
武田神社に架かる神橋(躑躅ケ崎館には設置されていなかった)
南東側の堀
武田神社の入口
参道
武田神社拝殿
武田信玄が使用したといわれる井戸
旧大手(内側から)
東側の空堀
旧大手(外側から)
大手口外側の堀
大手口外側の堀
三ケ月堀の発掘現場
名水「姫の井戸」
水琴窟
西曲輪からの小口跡
西曲輪の北側
西曲輪の空堀
西曲輪の空堀
天守付近の空堀(天守の石垣が残る)
西曲輪に建つ石碑
西曲輪から南側への小口
西曲輪の南側の堀
西曲輪南側から神橋を見る