甲 府 城

山 梨 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


山梨県甲府市丸の内1-5-4
舞鶴城、一条小山城
平山城
1583年
徳川家康
浅野氏、徳川氏、柳沢氏
石垣、堀
山梨県史跡
なし
2011年2月26日

1582年戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は、織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配下に置かれました。
しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光秀らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子の手により完成をみました。
1600年の関が原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。
舞鶴城は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、1704年徳川綱豊が第5代将軍綱吉の嗣子となり江戸城へ移り住むと、柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。
しかし、柳沢氏が大和郡山城主として転封されると、甲斐国は幕府の直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることになりました。

稲荷曲輪から天守台

その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失、壮麗な姿は失われていきました。
明治時代になると廃城となり、明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され、勧業試験場として利用が始まるなど、新たな歴史を歩み始めました。
1897年(明治30年)には、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪の解体が決定され、甲府停車場、すなわち今の甲府駅の建設地となっていきました。
1904年に本丸周辺を舞鶴公園として開放、1930年には、甲府中学校の移転に伴い、県庁舎や県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時に西側、南側の堀は完全に埋められ、城跡はほぼ現在と同じ景観になりました。
-舞鶴城公園パンフレットより-

最高の石垣は17m

遊亀橋横から(この橋は築城時には無かった)

鶴の銅像(移設)

内松院門

本丸の石垣

武徳殿

坂下門跡

中の御門跡と階段

天守台の石垣

本丸への登路

本丸櫓跡

天守台(天守閣が建てられたという形跡がない)

天守台にある「明治天皇御登臨之址」の記念碑

天守台から本丸

天守台から数奇屋曲輪方面

天守台から稲荷曲輪

天守台から稲荷櫓

本丸への階段

本丸への階段

本丸北面の石垣

野面積み石垣(左)と切込み接ぎ石垣(右)が混在

稲荷門

石切場(割る途中の岩)

数奇屋曲輪の石垣

数奇屋曲輪の内部と土塀

勝手門跡

鍛治曲輪

天守曲輪の石垣

妻が見つけたへんてこりんな石積みの階段

何層にも重なる石垣

坂下門跡

鍛治曲輪門

南面の堀

山手渡櫓門

山手渡櫓門の展望スペース

山手門

山手門全景