小 諸 城

長 野 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構

指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


長野県小諸市丁
穴城、酔月城、白鶴城、鍋蓋城
平山城
1554年
武田信玄
仙石秀久
大手門、三之門、天守台、石垣、
空堀
重要文化財(大手門、三之門)

2011年4月29日

天守台

文献上に小室(諸)の名が現れたのは養和元年(1181)木曽義仲の武将小室太郎光兼が現城址の東北の宇当坂に館を築いた事に始まります。
その小室氏が衰退し、佐久郡岩村田より大井氏が移り、長享元年(1487)大井光忠の代に鍋蓋城(大手門北側)が築かれ、その子満安(光為)が、現在の二の丸付近に乙女城(白鶴城)を築きました。大井氏の鍋蓋城・乙女城は天文年間甲斐の武田信玄によって攻略され、その武将山本勘助と馬場信房によって城の縄張(設計)がなされ、およそ現在の城の原型が作られました。武田氏滅亡後は、織田・北条・徳川の争奪がくり返され、やがて徳川の所領となり、依田信蕃が城代、その子康国・康勝兄弟が領しました。天正18年(1590)豊臣秀吉が天下統一をなし、小田原城攻めの軍功により、仙石秀久が5万石で入封、城の大改修と城下町を整備し、堅固で近代的な城を完成させました。

桜と三之門

仙石秀久・忠政親子の代に建物の多くが作られ、以降徳川忠長(城代を置く)松平憲良、青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、石川乗政、石川乗紀と続き、元禄15年(1702)越後与坂より牧野康重が1万5千石で入封し、康周、康満、康陛、康儔、康長、康明、康命、康哉、康済(康民)と続き、明治の版籍奉還まで約170年、10代にわたって小諸を領しました。
この城の特徴は、全国的にも珍しい城下町より低い穴城で、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず、崩れやすい断崖が堅固な要塞となっています。
小諸城の天守台は、自然な河原石を用いた野面積の石垣は、見事な迫力を見せています。また三層の天守閣が建っていたようですが、寛永3年に落雷で焼失したといわれています。
(懐古園、徴古館の資料より抜粋)

鹿嶋神社付近からの浅間山

城内へは下る

城内からの三之門

復元された石垣

水櫓跡 (水車を使って水を揚げ城内各所に給水したところ)

二の門跡

二の丸へ上がる階段

二の丸跡

二の丸から南丸を見下ろす

番所跡

中仕切門跡

北の丸跡

南丸跡

稲荷神社

黒門橋

黒門橋下の空堀

黒門跡

お駕籠台跡

本丸へ

懐古神社(本丸跡)

懐古神社

小諸八重紅枝垂

水の手不明御門跡

水の手展望台

酔月橋

地獄谷

鹿嶋神社

武器庫(再建)

本丸の石垣

天守閣跡

天守台

藤村記念館

荒神井戸

樹齢推定500年の欅 (幹まわり6.5m)

紅葉ケ丘

三之門へ

三之門

三之門表から

大手門外側から

大手門内側から

大手門内部

小諸義塾跡

小諸義塾記念館