新発田城
新 潟 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
新潟県新発田市大手町6
菖蒲(あやめ)城・舟形城
平城
不明
(新発田氏)
溝口秀勝
櫓、長屋、門、石垣、土塁、堀
国重要文化財(表門・二の丸隅櫓)
三階櫓・辰巳櫓
2014年6月24日
初代藩主溝口秀勝は、尾張国(現愛知県)中島郡溝口村の出身で、慶長3年(1598)に豊臣秀吉の命により6万石を与えられ、加賀国(現石川県)大聖寺から新発田に入封しました。溝口家は、越後で起きた上杉遺民一揆を平定し、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは徳川方に付いた外様大名です。
入封当時の藩領は、沼などの多い未開拓地でしたが、歴代藩主が河川改修や干拓などの治水と新田開発に努めた結果、美田の広がる蒲原平野へと生まれ変わりました。
また、8代藩主の直養は学問を好み、安永元年(1772)に越後で最初の藩校「講堂」(後に「道学堂」と改称)を設立し、同5年には全国で3番目の医学部を設立しています。
JR新発田駅前ロータリーです。
新発田に入封した秀勝は、まず五十公野(いじみの)に仮の住居を構えましたが、上杉景勝と戦って滅びた新発田氏の館跡(江戸時代は古丸と呼ばれていた)に築城を開始しました。
縄張りは家臣の軍学者長井清佐衛門と葛西外記が行い、入封から5・6年後の承應3年(1654)3代宣直のときに完成しています。
城の構えは本丸を二ノ丸が取り囲み、三ノ丸が南方に突き出した変形の輪郭・梯郭式併用型の平城です。これは、南以外の三方面が「馬足不叶」といわれた湿地であったこと、また、親藩である会津領方面の守りを重要視したことが理由と考えられます。
二の丸付近 公園になっています
新発田城は、本丸が舟のような形をしているため「舟形城」、周囲の湿地にアヤメが咲いていたことから「菖蒲城」と呼ばれていました。また、縄張りを命じられた長井清左衛門が設計に苦労しているときに一匹のキツネが現れ、雪の上に尾を引きながら図を示してヒントを与えたという言い伝えから「狐尾曳ノ城(キツネオビキノシロ)」とも呼ばれています。
新発田藩は、明治2年(1869)に版籍を奉還し、同4年の廃藩置県により、12代、274年にわたる歴史を閉じました。江戸時代、外様大名でありながら移封がなかったことは注目すべきことです。
城内には、明治5年まで櫓が11棟と、主な門が5棟ありましたが、新政府の命令で取り壊され、堀も埋め立てられました。現在は表門と旧二の丸隅櫓、本丸石垣と堀の約半分、旧土橋門付近の土居が残っています。
再建された新発田城三階櫓
屋根の棟がT字状になっていて、3つの鯱が乗っていて珍しい
自衛隊敷地内にあるため近くで見ることができません
鉄砲櫓が在った場所に移築された旧二の丸隅櫓
旧二の隅櫓と内堀
帯曲輪跡と土塁跡
土橋門跡
内堀と表門
元々は表門へは橋が架けられていた
表門外部 (国重要文化財)
表門本丸側
本丸
新発田藩初代藩主 溝口秀勝像
本丸に隣接して自衛隊が 遠くに三階櫓が見える
表門櫓内部
再建された辰巳櫓
辰巳櫓の内部 木の香が心地よかった(^^v
本丸辰巳櫓(復元)と内堀
赤穂義士堀部安兵衛像
溝口秀勝が開祖した宝光寺の山門 立派な彫刻が施されていました
三代将軍徳川家光寄進と伝えられる枝垂桜
三光寺山門
寺町の街並み
新発田藩下屋敷の庭園として作られた清水園(国指定名勝)
足軽長屋跡(国指定重要文化財)