駿 府 城
静 岡 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
静岡県静岡市葵区駿府公園1-1
府中城、静岡城
輪郭式平城
1585年(天正13年)5丁目
徳川家康
徳川家康
石垣、堀
国の史跡
櫓、門
2009年12月30日
室町時代に駿河守護であった今川氏がこの地域に今川館を建てて領地として支配していました。甲斐国の武田氏と相模国の後北条氏との同盟関係が友好であった時期はよかったのですが、領土拡大を画策する武田氏との同盟関係が解消されると、武田氏に侵略されて城館を奪われてしまいます。侵略した武田氏が支配をすることになりましたが、織田信長による武田征伐により武田氏が滅亡し、甲斐・駿河の領地は、三河の徳川家康が支配することになります。家康は駿府城を近世城郭に築城し直し、天守もこの時に作られます。
1590年に後北条氏を滅亡した豊臣秀吉は、後北条氏の関東地方を家康に封じ、代わって豊臣系大名の中村一氏が入城します。
江戸時代になって、家康は征夷大将軍の職を徳川秀忠に譲り、大御所を名乗って駿府城に形式的に隠居しました。この時に駿府城は大改修され、ほぼ現在の三重の堀をもつ規模になりました。
東御門
しかし、完成直後に天守や本丸御殿が失火により焼失し、直ちに再建を始め1610年には天守が完成しました。
駿府は、1616年に家康が死去するまでは江戸と並ぶ政治経済の中心地として繁栄したようです。家康の死後に二代将軍秀忠の次男徳川忠長が入城しますが、兄家光に改易されて自殺した後は、城代や定番が置かれ徐々に衰えていきます。
1635年に城下の火災が延焼し大半を焼失し、御殿・櫓・城門などは再建されましたが、天守は再建されませんでした。
大政奉還後に徳川慶喜の養子徳川家達が駿府藩主になりますが、廃藩置県があり家達は東京に移りました。
現在は、外堀の殆どが埋められ中堀までの間は、官公庁や学校が建ち、中堀の内側の旧本丸・二の丸は駿府公園として整備されています。
東御門
外堀
石垣の崩壊が進んでいます
草深御門橋
草深御門跡
横内御門橋
北御門橋
北御門跡
清水御門跡
西門橋
清水御門付近の中堀
二の丸御門跡
二の丸御門付近の石垣も一部崩壊
東御門
東御門
東御門の大きな石垣
二の丸の広場
巽櫓
東御門
紅葉山庭園
内堀
内堀と中堀を繋ぐ水路
御水門
東食違御門
本丸跡に建つ徳川家康像
西の丸
石垣に彫られた印