掛 川 城
静 岡 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
静岡県掛川市掛川
縣川城、縣河城、雲霧城、松尾城
平山城
1469年-1487年
朝比奈泰煕
山内一豊
御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀
国の重要文化財:二の丸御殿
天守、大手門
2010年5月3日
掛川城は、駿河の守護大名「今川義忠」が遠江地方を支配するために、重臣であった朝比奈泰煕(やすひろ)に命じて現在地より東方500mの位置に掛川古城を築城させたのが始まりといわれています。
泰煕の子孫である朝比奈泰能、朝比奈泰朝が代々引き継ぎましたが、朝比奈氏の主君である今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に破れ、義元の子「氏真」が武田信玄、徳川家康らに攻められ本拠地の駿府館を捨てて、掛川城に逃げ込みます。
徳川勢に包囲された掛川城の泰朝は奮闘して、落城することはありませんでした。
しかし、形勢不利であることは明らかで、主君「氏真」の身の安全を家康に認めさせる和議を成立させ1569年に開城します。
1995年に復元された大手門です
間もなく駿河国に入った武田信玄と徳川家康が敵対すると、信玄は掛川城に近い牧之原台地に諏訪原城を築き、徳川家康と高天神城で激しい攻防戦を展開しましたが、掛川城は武田氏が滅亡するまで徳川氏が領有を続けました。
1590年に豊臣秀吉は、徳川家康を東海地方から関東に移封し、秀吉の直臣である山内一豊を掛川城に入れます。一豊は戦火で痛んだ城の大幅な拡張・整備を行いこのときに天守も築造します。
1600年の関が原の戦い後、一豊は高知に移封されます。
江戸時代には、徳川親藩の松平家、江戸城を築いた太田道灌の子孫の太田家など11家26代の居城となりました。
1854年の安政東海地震で、天守など大半の建物が損壊し、二の丸御殿などの一部が再建されましたが、明治維新となり1869年に廃城となりました。
1994年には市民の寄付等によって日本初の木造による天守が140年ぶりに再建されました。
大手門裏側
大手門の傍に建つ番所です
逆川沿いから遠望します
城門
三日月堀
太鼓櫓
本丸から
本丸広場
腰櫓台跡
天守への石段
天守丸の城門
天守
掛川城御殿の全景
霧吹き井戸
天守
天守から大手門方面
急な階段
武者隠し
急な階段
小屋組み
太鼓櫓
十露盤堀
掛川城御殿玄関
御殿内から天守を望む
御殿内廊下
長囲炉裏の間の天井
網代状の野地板
掛川城と御殿
御殿外観
美術館前から