名古屋城
愛 知 県
2016年3月の訪問は
ココ
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
愛知県名古屋市中区本丸
金鯱城、金城、柳城、亀屋城
蓬左城
平城
1609年
徳川家康
名古屋城再建委員会
櫓3棟、門3棟、庭園、石垣、堀
国の重要文化財:櫓3棟、門3棟
天守閣、本丸御殿
2010年5月1日
名古屋城が築かれた場所には、もともと今川氏が築いた那古野城という城館があり、これを織田信秀が謀略で奪い、信秀の子、信長がこの城で生まれています。
信秀が古渡城に移り、那古野城は信長の居城となりますが、1555年に信長が清洲城に移ると廃城となります。
江戸時代となり徳川家康は、大阪城に居る豊臣秀頼、淀殿母子を滅ぼすため、彦根城、伊賀上野城、篠山城を築城して包囲網を進めますが、豊臣方が江戸に向けて進軍したときの用心に尾張に城を築いておくことにしました。また、豊臣系の財力を低下させておく狙いもあって、天下普請として豊臣系大名たちに築城を命じたのでした。名古屋城の築城に際しては、加藤清正、福島正則、黒田長政、前田利光、浅野幸長など蒼々たる二十家が加わりました。
加藤清正像
1610年に築城を開始し、1612年には完成するという驚異的なスピードであったようです。この城は、わずか12歳の家康の九男義直に与えられ、明治維新まで徳川家の居城として使われました。
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は、名古屋城の破却と金鯱の献上を新政府に申し出ましたが、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の働きかけにより、山縣有朋が天守、本丸御殿などの城郭の保存することを決定します。
1891年の濃尾地震で、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊しますが、天守、本丸御殿は大きな被害は受けませんでした。
しかし、太平洋戦争における空襲で直撃を受け、貴重な国宝は3つの櫓、3つの門、二の丸庭園の一部を除き大多数の建造物は消失してしましました。
天守は、1959年に地元商店街の尽力や全国からの寄付により再建され、現在では復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっています。
恩賜元離宮名古屋城の碑
正門
正門の石垣
西南隅櫓
空堀
表二之門
東南隅櫓
空堀
清正石
石垣
石垣の刻紋
旧二之丸東二之門
大天守
大天守入口
大天守入口
金鯱の模型
天守から
天守最上階
不明門
北側の堀
御深井丸からの天守
西南隅櫓
榧の木(天然記念物)
築城以前から自生し樹齢600年以上といわれています