岡 崎 城
愛 知 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
愛知県岡崎市康生町
龍城
梯郭式平山城
1452年
西郷稠頼・頼嗣
松平清康、田中吉政、本多忠利
石垣、堀
なし
天守、門
2010年5月2日
岡崎城は、徳川家康の生誕の地として有名です。岡崎城がある菅生川と伊賀川の合流点にある龍頭山という丘陵地には、元は三河国仁木氏の守護代、西郷稠頼(つぎより)・頼嗣(よりつぐ)親子が、北方からの攻撃を防ぐために龍燈山城(りゅうとうざんじょう)を築城していました。
その後、松平清康(徳川家康の祖父)が西郷信貞(松平昌安)から奪い取って拡張・整備したのが岡崎城です。
1542年に城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれます。
1549年に竹千代の父、松平広忠が家臣の謀反により殺害されると、今川家の支城として城代が置かれました。
松葉総門跡
1560年桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、今川方についていた松平元康(後の徳川家康)は岡崎城を取り戻します。
1570年に徳川家康は本拠を浜松城に移し、子の松平信康が城主となりますが、謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれ、以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めました。
1590年に豊臣氏は家康を関東に移封し、代わって家康の抑えのために豊臣家臣、田中吉政を入れます。吉政は城の拡張、強固な石垣や城壁を持った近代的な城に整備します。また、城下町の整備にも力を入れ、東海道を城下町の中心を通るように「岡崎の二十七曲がり」といわれる道を整備し、現在の岡崎城の原型を整えました。
伊賀川
関が原の戦い後、1602年には徳川氏譜代の重臣、本多康重が入城し、以降は徳川家康生誕の城として重視され、譜代大名が歴代の城主を務めました。
1617年に三重の天守が完成します。
1869年に本多忠直が城主となります。
1871年の廃藩置県により城内に岡崎県が置県され、引き続き額田県と併合されたため額田県庁が置かれましたが、翌年には移転されます。
1873年の廃城令により建造物が撤去されてしまいます。
その後、1959年に天守が再建されました。
大手門
家康の産湯の井戸
二の丸能楽堂
家康館
本多平八郎忠継像
徳川家康像
空堀
天守
天守入口
五万石ふじ
茶室葵松庵城南亭越しの天守