長 篠 城
愛 知 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
愛知県新城市長篠
末広城、扇城
平城
1508(永正5)年
菅沼元成
奥平信昌、徳川家康
曲輪、土塁、空堀、石垣
国の史跡(城跡の一部)
なし
2010年5月2日
1508年今川氏親の武将、菅沼元成が最初にこの地に築城し、それを契機に長篠菅沼氏と呼ばれました。
今川義元が死去した後、1569年に徳川家康に付いて掛川城(今川氏)攻めに参加し、菅沼貞景は戦死します。
1571年に武田軍の三河侵攻の一貫として、天野景貫に攻撃され、陥落だけは免れることができましたが、犠牲は大きく菅沼総領家の田峯菅沼家の説得を受けて、元成の直系玄孫、菅沼正貞は不本意ながら武田軍に服従することになります。
1573年には武田軍が侵攻を中止して甲斐に戻ったため、その間隙を突いて徳川家康に攻め込まれ、城主・正貞は開城し退去しました。それ以後、正貞が城に戻ることはありませんでした。
家康は武田軍の侵攻に備えて、長篠城の拡張整備を進めます。大規模な土塁などはこの時期に改修されたものといわれています。
1575年5月に武田勝頼が率いる1万5千の兵が、奥平信昌の手勢約500が守る長篠城に攻めかかります。これが有名な「長篠の戦い」です。
長篠の戦いで信昌は、援軍の徳川家康らが到着するまでの間、見事に守りきり武田軍の滅亡に繋がる働きをしました。
信昌は1576年に長篠城の戦いで大きな被害を受けた長篠城を取り壊して新城城として移築したため、長篠城は廃城となりました。
「長篠合戦のぼりまつり」の幟
毎年ゴールデンウィーク中に合戦行列や火縄銃の実演をする「まつり」が行われます。長篠の戦いで死亡した武士の鎮魂のために、1966年から行われているイベントです。町民らが武将や姫君に扮して町役場から長篠城本丸跡までの約2kmを1時間ほどかけて歩く一種の仮装行列です。
搦手門趾
瓢郭趾
空堀
長篠城址史跡保存館
内堀
長篠城址の碑
本丸土塁
本丸
本丸趾の碑
滝
城址を飯田線が分断
土塁
豊川と飯田線の鉄橋
野牛郭趾
物見櫓趾
弾正郭趾
家老屋敷趾
糧庫倉屋敷趾
長篠城駅
飯田線
飯田線は、愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線です。
総延長:195.7km 駅数:94駅
飯田線は単線の鉄道ですが、豊橋駅と豊川駅間は名鉄名古屋本線と共用の複線となっています。
長篠城駅など複数の駅が無人駅です。