大 坂 城
大 阪 府
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
訪 問 日
大阪府大阪市中央区
金城、錦城
輪郭式平城または平山城
1583年
豊臣秀吉
徳川秀忠
櫓、門、石垣、堀
国の重要文化財:櫓、門など
登録有形文化財:天守 特別史跡
2010年11月21日
大坂城は、「太閤(豊臣秀吉)さんのお城」と呼ばれたりしていますが、現存する櫓や石垣の大部分は、徳川氏によって築造されたものです。
豊臣家と徳川家との大坂冬の陣に続く大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏が滅亡した後、1620年から二代将軍徳川秀忠によって再建が進められ、豊臣氏が築城した従前の石垣や塀は取り壊し、全体に1~10mの盛土で埋めた上に、石垣を積んで築造しました。
したがって、豊臣氏時代の遺構は全て土中に埋もれており、当然、天守などの建物の構造も全く違うものを築造しました。豊臣氏に対する徳川氏の強い怨念のようなものを感じてしまいます。
西外堀と乾櫓
大坂城天守は現存する建物は三代目で、初代豊臣氏大坂城、二代目徳川氏大坂城そして現存する三代目復興天守です。
初代天守の正確な構造は不明ですが、五階に黄金の茶室があるなど、贅を尽くした建物であったようですが、大坂夏の陣の戦いで焼失してしまいます。
二代目天守は江戸城天守に似た細身の建物といわれ、初代江戸城天守を縮小して移築したという説もあるようです。これも幕末の混乱期(鳥羽・伏見の戦など)に出火し、城内のほとんどの建物が焼失してしまいました。
現存の天守は、大阪市長關一氏が再建を提唱し、市民の寄付金(現在の600~700億円)で1931年にSRC構造の建物として完成したものです。
西外堀の石垣と天守
復興天守は、古川重春氏、天沼俊一氏、波江悌夫氏や片岡安氏らの設計、意匠、構造によるもので大林組が施工しました。
意匠は豊臣氏天守と徳川氏天守の折衷形天守で、どちらかに統一すべきだったとの意見もあるようです。
大坂城を訪れてその迫力に驚いたのは「石垣」で、これまで見た石垣の中では高さ、スケールともに日本一のように感じました。(最大の石は表面が約36畳、推定130tもある巨大なものです)
一方で復興天守の内部は、混雑していたこともありますが、コンクリート造の近代建築物で余り魅力を感じられなかったことから強いて登城をしませんでした。
千貫櫓と多聞櫓
大手門への道
大手門
大手口多聞櫓
大手門の巨石(大手見付石 約29畳)
多聞櫓の石積 厚さがわかります
空堀
南仕切門跡・太鼓櫓跡
重要文化財 六番櫓
桜門
桜門の巨石(一番大きい蛸石 約36畳)
本丸からの天守
山里口からの天守
内堀
隠し曲輪からの天守
刻印石広場
極楽橋口へ
内堀越に天守
内堀の石垣
青屋門
内堀の石垣
東外堀
雁木坂
玉造口
一番櫓
二の丸からの天守
桜門に戻ってきました
西ノ丸庭園の石塀
大手門から帰路につきます