赤 穂 城
兵 庫 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
兵庫県赤穂市
加里屋城、大鷹城
変形輪郭式平城
1466年
岡 光広
池田長政、浅野長直
石垣、堀
国の史跡、名勝(庭園)
櫓・門、二之丸庭園(復元中)
2010年11月20日
赤穂城は、江戸時代に赤穂藩の藩庁が置かれていました。
変形の輪郭式城郭で、本丸と二の丸が輪郭式に配置され、その北側に三の丸が梯郭式に付属しており、銃砲撃戦を想定した造りとなっています。
浅野氏の代に近代の本格的な築城が行われましたが、石高が5万石の浅野氏には広過ぎて維持することだけでも経済的に大変であることや幕府への遠慮もあり天守閣は築造されず、天守台だけが現存しています。
1483年頃に岡光広がこの地に「加里屋城」として築城したのが始まりです。
1600年に姫路藩主の池田輝政の弟・池田長政が赤穂の領主となり、赤穂城の前進となる「大鷹城」を築城します。
赤穂はその後1613年に岡山藩の所領となり、輝政の二男で岡山藩主の池田忠継が統治することになります。この時代に塀、石垣、櫓や門が築造されました。
1615年には再び赤穂藩が独立し、これを忠継の弟・政綱が治め御殿を築造します。
1631年に政綱が子供が無いまま死去したため、弟の輝興が入封し、櫓、馬屋の築造にあたりましたが、1645年に発狂したため改易されます。城は備中松山藩主・水谷勝隆が預かり、同年、浅野長直が入封します。
浅井長直は、1646年に近世城郭に改築するための設計に着手し、1648年にはすんなりと幕府から築城の許可が得られたため築城を開始します。1652年には築城の指南を受けるため軍学者・山鹿素行を召抱え、山鹿氏の意により二の丸の変更を行い、1661年に赤穂城が完成します。
1701年に3代・浅野長矩(ながのり・浅野内匠頭)が吉良義央(よしひさ・吉良上野介)に対して江戸城、松之大廊下にて行った刃傷事件によって長矩は殿中抜刀の罪で切腹、浅野氏は改易となり、城は龍野藩主・脇坂安照が預かります。
1702年、永井直敬が入封しますが、同年には元禄赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)が勃発します。
1706年に永井直敬が転封され、森長直が入封し廃藩置県まで森氏が城主を務めました。
1873年の廃城令で廃城となり、順次建築物が取り壊されました。
1955年になって、大手門、大手隅櫓が再建されました。
1996年には、大手門枡形、本丸門および枡形、本丸雁口門が再建され、現在、二の丸庭園を再建しています。