鳥 取 城
鳥 取 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
鳥取県鳥取市東町
久松城、久松山城
梯郭式平山城および山城
1532年~1555年
但馬山名氏?
吉川経家、池田長吉
石垣、堀、井戸
国の史跡
門
2015年4月6日
【戦国時代の鳥取城】
城は、16世紀中頃、守護大名山名氏一族の争いの過程で誕生しました。はじめは因幡山名氏の守護所の出城でしたが、1573年(天正1)、天神山城から移転し、以後、鳥取城は因幡国(鳥取県東部)の拠点となりました。やがて、毛利氏の傘下となり、天下統一を目指す織田信長の武将・羽柴(豊臣)秀吉との間で壮絶な籠城戦が繰り広げられました。
この頃の城の姿は、戦闘時は山城を利用し、通常の居住空間は山麓にありました。敵が登りやすい尾根には、尾根を切り盛りして平らな敷地を造り、その周囲に切岸と呼ぶ急な斜面を造り防御としました。まさに城の字のごとく、”土から成る”城であり、城といえばイメージされる石垣や天守は無かったと考えられています。
堀の石垣
【安土桃山時代の鳥取城】
兵糧攻めの後、新たに城主となったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤でした。
彼は鳥取城に石垣や天守を築き(近世城郭)、城の姿を一新したとされます。
息子の長房は、1600年(慶長5)の関が原合戦で西軍に与したため、鳥取城は、東軍の鹿野城(鳥取市鹿野町)主、亀井玆矩や竹田城(兵庫県朝来市)主、赤松広秀(斎村政広)などの攻撃を受け、徹底抗戦の末に開城しました。
幅広の堀です
【江戸時代の鳥取城】
関が原合戦後には、池田長吉が入ります。長吉は姫路城を築いた池田輝政の弟で、鳥取城は姫路城とともに、西国の豊臣系大名の抑えを担いました。
しかし、1615年(元和1)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると池田家は転機を迎えます。1617年(元和3)、姫路城主池田光政は所領減封の上、因幡伯耆32万石の領主として鳥取に転封となり、現在の鳥取県城とほぼ同じ鳥取藩が誕生しました。
鳥取城は宮部時代から5、6万石規模の大名の居城に過ぎなかったため、池田光政は山麓を32万石の政庁として整備しました。
1632年(寛永9)、岡山城主池田忠雄の死去に伴い、3歳の光仲が家督を継ぐと、幕府は従兄弟・光政との国替えを命じました。以後、鳥取城は光仲を藩祖とする鳥取池田家12代の居城となり、国内有数の大藩の政庁として存続しました。
宝珠橋を渡ると北ノ御門跡です
【近代の鳥取城】
明治維新の後、1873年(明治6)の廃城令では、鳥取城は軍事的な必要性が認められ、建物の多くも陸軍の施設として再利用されました。しかし、国内の治安が安定すると、陸軍の撤退が決定し、1879年(明治12)に不要となった建物のほぼ全てが撤去されました。
城跡はその後、三ノ丸や籾蔵跡が学校用地として転用されたほか、扇御殿跡に宮廷建築の第一人者である片山東熊の設計による仁風閣(国重要文化財)が建てられました。大正時代になると、市民から要望を受けた旧藩主鳥取池田家によって久松公園(きゅうしょうこうえん)が整備されました。設計は、明治神宮外苑(東京都新宿区)の設計者でもある折下吉延でした。
現在も発掘調査が行なわれている中ノ御門跡周辺
【現在そして未来の鳥取城】
大正期以降、久松公園として親しまれた鳥取城跡ですが、1943年(昭和18)の鳥取大地震(震度6、死者1210名)によって城跡も大きな被害を受けました。
翌年、旧藩主鳥取池田家は、震災の復興に立ち向かう市民を勇気付けるため、鳥取城跡を鳥取市に寄贈します。城跡の保存の意思を引き継いだ市は、国史跡指定を契機として、石垣の修理を中心に城跡の保存と活用に取り組んでいます。
2006年(平成18)には、建物復元を含めた長期的な整備計画を策定し、現在、城の正面玄関にあたる大手登城路の復元整備計画に取り組んでいます。
(鳥取市教育委員会事務局文化財課発行の「鳥取城跡」から抜粋)
城内唯一の白色花崗岩の切石積石垣(右)
太鼓御門跡付近の石垣
重要文化財「仁風閣」の裏口
三ノ丸跡 高校になっています
再現された綺麗な石垣
天球丸巻石垣(復元)
1807年(文化4)頃に背後の石垣が孕み出し、その崩落を防止するために築かれた球面の石垣です。他の城跡で見た記憶はありません。
石垣が坂状に積まれているのは珍しいです
表御門跡
菱櫓跡
三階櫓跡
三階櫓跡から角櫓跡方面を見下ろす
三階櫓跡から仁風閣を見下ろす
幕末のものとしては国内唯一の登石垣
お左近という女中の手水鉢を三階櫓の石垣に築き込んで完成した
二の丸の石垣 日本百名城のスタンプはここがモデルとなった
復元された西坂下御門