月山富田城

島 根 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


島根県安来市広瀬町
月山城、富田月山城
複郭式山城
1185年頃?
佐々木義清?
尼子経久、堀尾吉晴
石垣、曲輪、堀切、井戸
国の史跡
石垣、侍所
2015年6月9日

富田城の創築は平安末期とも鎌倉初期頃ともいわれ明らかではありません。能義平野を流れる富田川(現飯梨川)に面した月山(標高197m)に本丸を置く典型的な山城です。
戦国時代に大名尼子氏の本拠地となり、尼子氏と盛衰をともにした山陰地方の要衝となりました。天然の地形を利用した難攻不落の要塞といわれていましたが、毛利元就に攻められ、一年半の籠城の末、開城し尼子氏は滅亡しました。その後、堀尾氏が城主となりますが、1611年(慶長16年)堀尾忠晴が松江城に移り廃城となりました。

登城口の安来市歴史資料館と大駐車場です

【尼子盛衰記】
応永二年(1395)江州京極高詮の守護代として富田城に入り、出雲・隠岐両国を治めようと決意したのが尼子持久であった。そして持久の子・清貞が家督を相続し、京極からの独立を図るが失敗に終わる。二年後、清貞の嫡男・経久は富田城を攻め、富田城乗っ取りに成功した。さらに近隣諸国を次々と幕下に加え、経久の体制は確実に強化されていった。
しかしその中で、永正十五年(1518)経久の嫡男・政久は、阿用(大東町)にて討ち死にする。
大永元年(1521)尼子の武威は旭日昇天の勢いでのぼり、安芸・備後・備中・備前・美作・播磨・因幡・伯耆・出雲・石見・壱岐等、山陰・山陽11カ国をその手に握り、尼子氏は全盛を迎えた。
天文六年(1537)尼子の基礎を築いた経久も孫・晴久に家督を譲る。

雨上がりで石段が滑るため舗装道路を歩きます

天文九年(1540)には、郡山の城主・毛利元就の反逆が増長するのをみかね、元就征伐のため清久は郡山城へ軍を起こした。翌年、経久の片腕として尼子氏繁栄に尽力した弟・尼子下野守久幸は、毛利氏との合戦で戦死する。天文二三年(1554)経久の二男・国久を長とし、尼子氏のなかで最強の軍団・新宮党に目を付けた毛利元就は、謀をめぐらせ晴久と仲違いをさせ、国久・誠久父子は晴久に殺害される。こうして新宮党は族滅、ただ一人誠久の五男・孫四郎が落ち延びたのである。
永禄三年(1560)晴久頓死により、嫡男・義久が跡をつぐが、新宮党亡き後、戦闘能力の激減した尼子氏は、山中鹿介を中心とする尼子十勇士の活躍も及ばず、永禄九年(1566)ついに毛利の軍門に降り、富田城を開場した。
(安来市観光協会パンフレットから転載)

月山が見えました

山中鹿介幸盛の銅像です 尼子氏ではなくて山中氏なんですね?

小高いところは太鼓壇です

奥書院平

花の壇

侍所を再現

堀切

御殿平の石垣

御殿平と月山です

雑用井戸です

菅谷口の虎口

山吹井戸 七曲の中腹にある井戸で年中涸れることがない

三の丸から二の丸へ

三の丸にも井戸が

二の丸です ここからは眼下に城下町が望めます

二の丸と本丸の間の堀切は高さ10mもあったようです

本丸です

本丸の奥にある勝日高守神社

三の丸の東南側の石垣です 三段の階段状に積まれています

御殿平に戻ってきました

軍用井戸です 御殿平の下にあり行きにくい場所でした