備中松山城

岡 山 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


岡山県高梁市内山下
高梁城
連郭式山城
1240年
秋庭重信
三村元親、水谷勝宗
現存天守、櫓、堀、石垣、土塁
国の重要文化財、国の史跡
本丸(櫓2基、門4棟、土塀)
2015年4月4日

【松山城の歴史】
この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2年(1240)に有漢郷(うかんごう・現在の高梁市有漢町)の地頭に任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化しますが、なかでも天正2年(1574)に起こった「備中平乱」時は、「砦21丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録としても残っており、臥牛山全域が一大要塞となっていたことが、うかがえます。


当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど、備中の要衝としての役割を担っていたようです。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が変わり明治維新を迎えますが、現存する天守などは天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。

臥牛山(右端)の山麓には城下町が広がっています

市街地の北端にそびえ「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている「臥牛山(がぎゅうざん・標高約480m)」。北から大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれ、備中松山城はその頂を中心に全域に及んでいます。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年に重要文化財の指定を受けています。
また平成9年には、この重要文化財を中心に、本丸の正面玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが史実にもとづいて復元されました。さらに傷みが進んだ天守も平成15年には保存修理が行なわれ現在に至っています。

石段を登城します

上太鼓丸櫓跡

上太鼓櫓丸跡からの眺め 高梁の街が良く望めます

更に石段を登っていきます 足腰が達者でないとお城も見られません

大手門跡付近の石垣 天然の岩を上手に利用しています

綺麗な土塀(現存と復元)が続いています

三の丸と二の丸の石垣です

黒門跡を通り二の丸へ向います

二の櫓門跡

二の丸からは五の平櫓(復元)六の平櫓(復元)と天守が見えます

二の丸から本丸へ

本丸南御門(復元)をくぐっていきます

本丸からの天守(現存・国指定重要文化財)

本丸東御門(復元)

天守に入ります

本丸の全景です 正面が入城してきた本丸南御門です

八の平櫓跡

天守内部に入りました

天守内部1階の窓から高梁川を望みます

装束の間 籠城時の城主の居室で、侵入しにくい造になっています

珍しい囲炉裏 板石造り、長さ1間、幅3尺で食事、暖房用です

二重櫓(国指定重要文化財)天守と通じた逃げ道

天守2階の御社壇

天守2階から本丸と二の丸を望む

後曲輪に向います 綺麗な石垣です

後曲輪跡

二重櫓と腕木御門(左・復元) 南北2つの出入り口は逃げ道

水の手門跡

ここから、天神の丸跡、大松山城跡へ行けますが、今回はここまで。
又の機会ということです。是非、大松山城跡へも行ってみたいです。