岡 山 城

岡 山 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


岡山県岡山市丸の内
烏城、金烏城
梯郭式平山城
1346~69年
上神高直
宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
櫓、石垣、堀
国の重要文化財 国の史跡
天守、門、堀
2015年4月6日

「安土城に建築ありし制に擬して天守閣を設く。その制三重造にて五重・・・」と、古い記録(岡山城誌)にもあるように、この岡山城は、本格的な城づくりのスタートとされる織田信長の築いた安土城にならって作られた日本を代表する城郭建築で、城の研究には避けて通れない貴重な城である。
いつも豊かな清水をたたえて流れる旭川、日本三名園の一つ「後楽園」を背景にしたこの城は、天守閣の基壇(天守台)が北に大きく突き出た不等辺五角形という、全国に全く例のない珍しい形をしており、また塩蔵を併設した複合の天守閣である。
かつての岡山城の場所は、今の天守閣のある位置より西に300mほど行った、現在市民会館や放送局の建っている高台(石山)にあった。
天正元年(1573)、宇喜多直家が、当時ここの城主であった金光宗高を滅ぼし、その城を修築した後、沼城(岡山市東区沼)から移ってきた。

内堀を隔てて天守

今の岡山城を築いたのは、宇喜多直家の実子、秀家で、時の天下人、豊臣秀吉の養子となって「秀」の一字をもらった人物である。秀吉が天下を握ると、秀家は父の遺領である備前・美作のほかに備中の一部ももらい、57万4000石の大大名となった。そして年若くして、参議従三位という異例の出世を遂げ「備前宰相」と呼ばれた。
こうなると、今の石山の小さな城では満足できず、秀吉のアドバイスに従い、現在天守閣の建つ場所「岡山」という名の小さな丘の上に、新しく旭川の流れをつけかえて、掘削した土砂を盛上げ、上中下三段の地形を造成した。そして天正18年(1590)から本格的な城づくりを開始した。途中、秀吉の朝鮮半島への進攻には、総大将として出陣したが、帰ってくると直ぐに工事を継続し、ついに慶長2年(1597)の天守閣の完成で一応城づくりの全工事を完成した。竣工以来実に8年にも及ぶ大事業であった。
新しく出来上がった本丸(城の中心部分、内堀に囲まれた範囲)は、現在も殆んど昔のまま残っている部分で、面積が約4万m2あった。

内堀

秀家の築いた天守閣は、石垣からの高さが20.45m、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた三層六階の構造である。外壁の下見板には黒漆が塗られていたので、太陽光に照らされるとあたかも烏(からす)の濡れ羽色によく似ていたため、「烏城(うじょう)」の別名がある。壁が黒いのは、戦国時代の名残である。
また天守閣の内部には、かつて城主が生活をしていた「城主の間」の遺構が再現されていて、全国的にも珍しい設備である。他の城でこの実例があるのは、天文6年(1537)の建築といわれる犬山城だけである。
かつて岡山城の範囲は、現在路面電車の通っている柳川筋や番町筋(当時の外堀跡、二十日堀といわれる)までで、建物の数としては、櫓が35棟、城門が21棟あり、当時はわが国を代表する名城であった。

内下馬橋を渡って内下馬門跡へ

しかし明治2年(1869)、岡山城は国の所有となったものの、これら全ての建物を維持していくことができず、明治15年(1882)以後に残されたものは、僅かに天守閣、月見櫓、西の丸西手櫓および石山門の4棟であった。
その後、これらは昭和6年と8年(1933)の二度に分けて国宝に指定されたが、昭和20年(1945)6月29日の早暁、第2次大戦による市街地空襲で、惜しくも天守閣、石川門を焼失してしまった。
現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月3日、市民の長年にわたる要望で作られた鉄筋コンクリート造りだが、外観は旧状通りに再現された。また同時に、不明門(あかずのもん)、廊下門、六十一雁木上門、それに周囲の塀なども、古い絵図面に従い、外観が旧状通りに再現された。
(公社おかやま観光コンベンション協会パンフレットより)

内下馬門跡の石垣

表書院の高石垣(本丸)

鉄(くろがね)門跡への石段

鉄(くろがね)門跡

不明(あかずの)門

天守閣の礎石展示

天守(望楼型 五層六階・再現)

天守から後楽園方面

表書院への通路

表書院への通路

廊下門

表書院から天守

月見櫓(現存)

多聞櫓跡(表書院跡)

地中に埋もれていた石垣

廊下門

廊下門横の二段の石垣 積まれた年代が異なる?

天守台の石垣

旭川側の本段の石垣と正面は六十一雁木上門

本段の高石垣

旭川と対岸は後楽園

発掘調査中の本丸

本段の高石垣

本丸から不明門を見上げる

岡山城は、天守閣があるものの鉄筋コンクリート造で味わいが無いのだろうなと思い込んでいました。
しかし、実物を拝見すると外観はそれを感じさせないように再現され、初めて見る望楼型天守としては、とても美しく感じました。
今回は、ツアーという時間制約が多い訪城でしたので、東南の曲輪、西の曲輪、二の丸外曲輪ならびに城下を含め、再来したいと思わせるお城でした。