吉田郡山城

広 島 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


広島県安芸高田市吉田町

山城
不明
毛利氏
毛利元就、毛利輝元
曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸
国の史跡

2015年6月8日

戦国武将:毛利元就の居城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛川と多治比川の合流点の北側に築かれ、戦国期最大級(東西1.1km、南北0.9km)の山城です。
【歴 史】
築城の時期は不明ですが、城内にあった満願寺や祇園社(今の清神社)などは築城以前から建立されており、15世紀後半には毛利氏の城として存在したようです。当初は「本城」と呼ばれた東南の尾根上が城の中心で、元就が台頭した16世紀中頃に郡山全山が城郭化したといわれています。その後、輝元時代に広島城へ本拠が移り、さらに関が原合戦後の国替えにより廃城となりました。

薬研堀、石塁を伴う屋敷跡などの発掘場所
保存のために埋め戻されています

【構 造】
山上部(城)と山麓部(里)で構成されています。山上部は山頂(標高390m、比高190m)にある本丸を中心として放射状に270ケ所以上の郭が築かれています。本丸、二の丸、三の丸などの中心部は「嶝(かさ)」と呼ばれ、元就や輝元が住んでいました。ここには石垣の跡や瓦の断片が確認されたことなどから、輝元時代の16世紀終盤に大幅な改修が施されたようです。
また、勢溜の壇、厩の壇、釜屋の壇、姫の丸など中心部を取り囲む各尾根上には、家臣居住区と思われる郭群が形成されています。
一方、本城は戦国初期の形態を残しているといわれ、石垣や瓦は見つかっていません。さらに山麓部には城内外を区画する内堀が巡っていたことが判明しています。

毛利家の墓所

苔と緑が綺麗な墓所です

百万一心碑

山道を登っていきます

姫の丸への分岐

御蔵屋敷

釣井の壇の井戸跡

三の丸跡

二の丸跡

本丸と櫓台

本丸跡

勢溜の壇跡

堀切を過ぎ下っていきます

展望台から城下町を望みます

興禅寺跡(郡山公園)の中村橋之介の記念植樹

清(すが)神社 杉の大木が素晴らしい

三矢の訓跡碑(御里屋敷伝承地)

毛利元就公の像

青教寿師の跡