徳 島 城

徳 島 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


徳島県徳島市徳島町
渭山城、渭津城
梯郭式平山城
1585年
蜂須賀家政
蜂須賀氏
石垣、堀、庭園
国の史跡、国の名勝(表御殿庭園)
鷲の門
2012年6月4日

この地域は鎌倉時代から伊予国(愛媛県)地頭の河野氏が統治していました。南北朝時代に入り、細川頼之が四国地方にあった南朝方勢力を討ち、この地に流れる助任川の風景を中国の渭水に例えて「渭津」、山を「渭山」と名付けたとされています。一説では西から見た山の形が猪に似ていることから「猪山(いやま)」となったともいわれています。
または富田庄(後の徳島)の地頭となった河野通純が築いたともいわれています。
戦国時代になり城主が度々入れ替わりましたが、1580年土佐国の長宗我部元親が侵攻して制圧しました。四国征服を良しとしなかった織田信長の助力を得て1581年に三好康長・十河存保らが反抗し、更に1583年には信長の三男神戸信孝を総大将とする攻撃軍が編成されましたが、本能寺の変で信長が死に信孝軍が解体され、元親は難を逃れます。

城の東南隅には着見櫓があり
船の出入りを見張っていたそうです

元親は政治空白に乗じて勢力拡大を図り、阿波を完全に平定しました。通説によれば、1585年には元親が四国全土をほぼ制定したとされています。
同時期に豊臣秀吉が紀州を平定すると、元親に対して伊予、讃岐を返納するように命じたが応じなかったため、秀吉の弟・羽柴秀長を総大将とする10万を越える軍が派遣されました。この攻撃により長宗我部氏は降伏し、土佐一国のみを安堵することになりました。
この四国征伐で功績のあった蜂須賀家政が阿波一国を拝領し、徳島市西部にあった「一宮城」に入城し、その直後に現在の渭山に平山城を築城しました。

徳島中央公園の案内図
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蜂須賀氏は元々は山賊で、鳴門の森水軍を配下としていました。水軍といっても実は海賊であったようです。
蜂須賀氏は徳島藩25万石を領し江戸時代を通して移封されることもなく明治維新を迎えました。
徳島城の山城部分は、標高約62メートルの渭山に建てられていました。北側の助任川、南側の寺島川に守られ、これらを天然の堀として利用することができたため、わずか1年の突貫工事で完成したようです。
天守は海側の眺望に優れた二の丸に建てられていました。
現在は、徳島中央公園として一般公開されています。
「徳島城博物館」は月曜休館で見学できませんでした。

城の石垣と下乗橋

鷲の門

三木曲輪

下乗橋(げじょうばし)跡
城内の堀に架けられた木製の太鼓橋

太鼓櫓跡

大手門跡

御殿跡 現在は博物館が建てられています

蜂須賀家政公


蜂須賀氏といえば、元は山賊、たまたま知り合った若き日の豊臣秀吉に惚れ込み、墨俣一夜城の建築で大活躍して以来、ずっと側近として仕えてきました。
秀吉は四国を平定すると、蜂須賀氏に阿波一国を与えて、吉野川河口の海際に築城を命じたのでした。

弁天池


西坂口

西三の丸門跡

西二の丸

帳櫓跡

弓櫓の石垣(右側)

弓櫓跡

本丸

本丸から東二の丸への階段で振り返ります

東二の丸 ここに天守が建っていました

天守の位置からの眺望

自然石の崖

城山の貝塚

城山の海蝕痕 岩肌に残るくぼみは、海の波の侵食跡

数寄屋橋 徳島城の鬼門にあたります
凶事以外は開きませんでした

堀に架けられた数奇屋橋