湯 築 城
愛 媛 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
愛媛県松山市道後町
湯月城
梯郭式平山城
1335年(建武2年)頃
河野氏
小早川氏、福島氏
土塁、水堀、郭
国の史跡
武家屋敷
2019年6月20日
中世の城郭である湯築城は、近世の城郭が持つ石垣や天守が無く地形を利用して作られた平山城です。築城当初の14世紀前半は、中央の丘陵部を利用した山城でしたが、約200年後の16世紀前半には周囲に外堀を築き、二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城になったと推定されます。
江戸時代に描かれた絵図から、東側が大手、西側が搦手と考えられています。また、発掘調査が行われた道後公園の南部では、外堀の内側に排水溝をともなった道路が巡っており、内堀との間の平地部のうちの西側は建物礎石、土塀などの遺構から「家臣団居住区」と見られています。このことから、城内は機能や格式によって使い分けられていた様子が明らかになり、当時の城内の生活を復元するうえで貴重な情報が得られました。
発掘調査は昭和63年に開始され、これまでに公園の南部を中心に約2万㎡について調査が済んでいます。伊予の歴史・伝統文化を育んだ河野一族の栄華は、まだこの地に眠っているかもしれません。
搦手門の内部から
外堀の土塁です
外堀土塁内の武家屋敷です
武家屋敷の門と土塀です
再建された武家屋敷建物です
武家屋敷建物の内部(主室)です
武家屋敷建物の内部(台所)です
土塁内の通路には排水溝が整備されていたようです
再建された武家屋敷その2です
内堀と土塁です
土塁の断面が展示されていました
通路脇の排水溝です
上級武士の居住区です
天然の岩肌を利用した庭園を眺めて宴を開いたようです
宴会で使った皿などを棄てた土坑(ゴミ捨て穴)です
上級武士の居住区です
遮蔽土塁です 門があったと考えられます
大手口から城内を眺めます
大手口の外堀です
現在はグラウンドになっています
岩崎神社の鳥居です
蛇を祀っているといわれる岩崎神社です
最高所(展望台)へ向かいます
展望台は天守台のように一段高くなっていました
展望台から松山城を望みます
湯築城で最高所の郭(本壇)から杉ノ壇を見下ろします
杉ノ壇です この呼称は江戸時代の文献によります
外堀です
愛媛県指定文化財の石造湯釜です
道後公園の入口看板です
この湯釜は、通称「湯釜薬師」と呼ばれています。
湯釜の宝珠には、河野通有の依頼により一遍上人が「南無阿弥陀仏」と書いたとされています。
また、河野通直の命による温泉の効験の刻文も残る貴重な文化財です。
湯築城は、道後公園として整備されてしまったため、その大半に遺構などが残っていません。
杉ノ壇の発掘調査では、鍛冶炉、瓦敷遺構や礎石列、堀切などが確認されているようですが、今は見ることができないのが残念です。