熊 本 城
熊 本 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
熊本県熊本市本丸
銀杏城
梯郭式平山城
1469 - 1487年頃
出田秀信
加藤清正
現存櫓・門・塀、石垣、堀
国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、
塀1棟 国の特別史跡:熊本城跡
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2006年10月17日・2009年5月29日
熊本市の北方、茶臼山丘陵の東側に15世紀の後半にかけて、肥後国守護の菊池氏の一族、出田秀信によって築城された「千葉城」が、熊本城の始まりです。
出田氏が衰退してくると、菊池氏は鹿子木親員(かのこぎちかかず)に命じて茶臼山西南麓に隈本城を築城させて入城させます。
その後、戦乱の時代に入り、菊池氏、大友氏、島津氏、龍造寺氏などが争い、隈本城には大友氏の城親冬が入城しました。
1587年、豊臣秀吉による九州平定で、佐々成政が肥後国の領主となりますが、統治に失敗して切腹させられ、1588年に領土は北側を加藤清正、南側を小西行長が治めることになります。このときに清正が隈本城に入城しました。
加藤清正公像
清正は、1591年から千葉城と隈本城がある茶臼山丘陵一帯に築城を開始します。関が原の戦いで功績のあった清正は、肥後52万石を拝領し、1606年に城が完成すると熊本城と改称します。これが現在の熊本城です。
1611年の清正の死後、11歳で熊本藩主を継いだ三男・加藤忠広が1632年に統治の失敗により改易され、代わりに細川忠利が54万石で入封します。忠利は、荒れていた熊本城の修繕とともに、本丸の増築など大規模な拡張・改築を行い、この時に現在の規模の縄張りが完成しました。
明治維新後、熊本城の解体が決まりましたが、当時の前藩知事の細川韶邦(ほそかわよしくに)の保護運動により、城内は一般公開されることになります。
竹の丸から飯田丸五階櫓を見上げる
しかし、廃藩置県により熊本県庁が二の丸に置かれ、歴代藩主の住まいだった花畑邸に鎮西鎮台が置かれました。鎮西鎮台司令の桐野利秋は、老朽化した櫓、多重櫓や西出丸の石垣などを取り壊すなど、西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸周辺部だけが残るに至りました。
西南戦争では、政府軍の重要拠点として西郷軍14,000人の攻撃を受けますが、熊本城司令官の谷千城の指揮下4,000人の兵で撃退させました。
西南戦争後に残っていた西竹之丸脇五階櫓、飯田丸三階櫓や札櫓門も、陸軍によって撤去されてしまいます。
1933年になって宇土櫓、監物櫓などが旧国宝に指定され、熊本城跡として国の史跡となり、本格的な保存がされるようになりました。
1955年には国の特別史跡「熊本城跡」として指定され、その後、大小天守、平櫓、塀などが再建されてきました。
2007年には本丸御殿、戌亥櫓などの建造物が復元され、今後も復元事業が続いていく予定があります。
大天守から宇土櫓(重要文化財)
本丸の西北隅の高石垣(20m)の上に建つ三層五階地下一階の櫓です。
宇土櫓は重要文化財ですが一般公開していて内部を見学することができます。
飯田丸からの天守
二様の石垣
飯田丸五階櫓
五間櫓
不開門
大天守から小天守
本丸御殿内部
小天守から大天守
小天守から宇土櫓
数奇屋丸二階御広間
二の丸広場から
南大手門