人 吉 城
熊 本 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
熊本県人吉市麓町
球磨城、三日月城、繊月城
梯郭式平山城
元久年間(1204年-1206年)
相良長頼
相良義陽・相良頼寛
石垣、土塁
国の史跡
多門櫓、隅櫓、長塀、堀合門
2017年3月10日
人吉城の築城主である相良氏は元々、遠江国相良庄(現在の静岡県牧之原市)を本拠とした武士ですが、建久4年(1193年)相良頼景が多良木荘に、建久9年に頼景の長男相良長頼が人吉荘に下向したとされ、長頼が元久2年(1205年)人吉荘の地頭に任命されこの地を治めます。
その後、長頼は、次男の頼氏に多良木荘、三男の頼俊に人吉荘南方を譲ります。以後、頼氏の家系を上相良、頼俊の家系を下相良と呼ぶようになりました。
人吉球磨を領地とした二つの相良氏は南北朝の争いの中で、対立と融和を繰り返し、結果として武家の拠点となる城郭が整備されることになりました。文安5年(1448年)、下相良11代相良家当主相良長続は、上相良を滅ぼし球磨郡を統一します。この頃、古文書に初めて人吉城が登場します。戦国時代になると、相良氏は芦北・八代・薩摩に兵を差し向けて領土の拡大を図り、陣城や城郭を人吉や球磨郡城に築城するなど戦国大名として発展していきました。
豊臣秀吉の進軍による九州平定の後、相良氏は球磨郡一群の領主として存続します。天正17年(1589年)には、人吉城の大改修が行われ、新時代の技術である石垣造りの城と なります。また、この石垣造りの城は急流・球磨川とその支流を天然の堀とする「川の城」でもありました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、相良家家老、相良清兵衛の機転により石田方から一転して徳川方に寝返り、この功績で外様大名として存続することに成功します。以後、明治時代の廃藩置県を迎えるまで一貫して、人吉城を本拠とし、人吉球磨の領主を務めることとなりました。
鎌倉時代から明治時代まで長きにわたり同一の領主が同じ地域を治めるという全国的にも珍しい歴史をもち「相良700年」とも称されています。