豊後府内城
大 分 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
大分県大分市荷揚町
大分城、荷揚城、白雉城
梯郭式平城
1597年(慶長2年)
福原直高
竹中重利
櫓2棟、石垣、堀
大分県文化財:人質櫓、宗門櫓
櫓、門、橋
2009年5月31日
中世に大分市地域が府内と呼ばれていたことから府内城と名付けられたそうです。府内には豊後国の国司が政治をしていた役所が置かれ、守護職・守護大名の大友氏の拠点がありました。現大分駅の東方に大友氏の守護館(大友氏館)が、また南方の上野丘陵には堀や土塁に囲まれた上原館という防衛拠点が設けられていましたが、敵に侵攻されて防衛できるほどには整備されていませんでした。
1586年の島津氏の侵攻で、大友氏館など中心部が焼失しました。その後に代官として早川長敏が館を改修して住んだといわれています。
1597年に豊臣秀吉の家臣、福原直高が12万石で入封し、大分川河口付近に堅固な城の築城を始め、1599年に完成します。この場所は、船の荷役をしていた「荷落」という地名でしたが、「落ちる」とは縁起が悪いとのことで「荷揚」に変え、城の名も「荷揚城」としました。
荷揚城完成後、間もなく秀吉が没し、実権を握ってきた徳川家康によって直高は、臼杵に移封され、再び早川長敏が入城します。
1601年に関が原の戦いで西軍に加担した長敏は改易され、代わって竹中重利が入城し、1607年まで荷揚城の大改修を行います。2代藩主竹中重義は、長崎奉行をしていた徳川秀忠時代にキリシタン弾圧をした人物です。1634年徳川家光の代に職務上の不正を行い切腹させられ、竹中氏は改易されます。
代わって日根野吉明が入城しますが、1656年に後継者が無いまま没したため廃絶し、稲葉信通が城代として入ります。
1658年に大給松平家の松平忠昭が入城し、以後明治維新まで居城します。
1743年に市中の大火により城の大部分の建物が焼失してしまい、その後、天守が再建されることはありませんでした。
現在は、本丸跡北西隅の人質櫓、西丸の宗門櫓や石垣、内堀が現存しており、二重櫓、大手門、土塀や廊下橋が復元されて、大分城址公園として公開されています。
大手門
冠木門の礎石
二階櫓
二階櫓
北側堀と二階櫓
堀越しに山里丸
廊下橋
廊下橋
廊下橋内部
帯曲輪の石垣
天守台の石垣
天守台から廊下橋
天守台から東ノ丸