首 里 城
沖 縄 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
沖縄県那覇市首里
御城(ウグシク)
山城
14世紀末(推定)
不明
尚巴志
石門、石垣
国の史跡、 世界遺産
正殿、門、御嶽、城壁
2017年1月11日
首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものです。
首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられています。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在します。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴です。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまいましたが、首里城はグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げました。
首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しています。
守礼門 名の由来は扁額に「守禮之邦」と掲げられている
正殿をはじめとする城内の各施設は東西の軸線に沿って配置されており、西を正面としています。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つです。中国や日本との長い交流の歴史があったため、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けています。正殿や南殿、北殿はその代表的な例です。
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもありました。また、各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。さらに、首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍しました。首里城は文化芸術の中心でもあったのです。
世界遺産に認定された証の記念碑です
1879年(明治12)春、首里城から国王が追放され「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われました。
1930年代には大規模な修理が行われましたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼してしまいました。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいます。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしています。2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録されました。
園比屋武御嶽石門という尚真王時代に創建された拝所
亀甲乱れ積みの石垣です
歓会門 中国皇帝の使者「冊封使」を歓迎する意味の命名
石垣上部の角が丸く尖っています
歓会門の裏側には衛士が居ます
瑞泉門へ向かって登っていきます
「龍樋」は首里城第一の泉です 湧き水です
瑞泉門 別名「樋川御門」と呼ばれる首里城第二の門です
歓会門方面を振り返ります 階段途中に龍樋があります
瑞泉門の両脇には魔除けの一対の石獅子が並びます
瑞泉門を抜けると第三の門、漏刻門が見えます
広福門の前の広場です
日時計「日影台」で時刻を計っていました
供屋・万国津梁の鐘(レプリカ) この鐘で時刻を知らせました
北殿の外観です
広福門(ロウコクモン) 別名「長御門」は城内第四の門です
「下之御庭(シチュヌウナー)」入りました
先に「西のアザナ」に向かいます ガジュマルの木です
西のアザナ(イリノアザナ)は標高約130mの物見台です
奉神門は正殿のある御庭(ウナー)へ続く最後の門です
御庭に入りました
正殿、正式には「百浦添御殿(モモウラソエウドゥン)」といいます
あかんべーをしている彫り物がありました
正殿に向かって御庭の右側にある南殿・番所です
いよいよ正殿の内部に入ります 内部はほぼ撮影禁止です
国王の椅子は尚真王の御後絵をもとに再現されました
正殿の存在を証明する礎石を見ることができます
御庭では、元旦の儀式などの重要な祭事が行われます
淑順門(シュクジュンモン)は国王やその家族の専用でした
御内原(オウチバラ)は国王らの住居で現在未公開です
右掖門(ウエキモン)は御内原への通用門です
久慶門(キュウケイモン)は主に女性が利用する通用門でした
ハート型の敷石として有名です
守礼門へ戻ってきました
首里城はその役割から、大きく3つの空間に分けられます。
正殿1階や南殿・番所、北殿、書院・鎖之間など、御庭とよばれる広場を中心に、政治や外交が行われた「行政空間」。
そして信仰上の聖域が点在する城内でも、最も神聖な聖地として崇められた、京の内の「祭祀空間」。
さらに、国王とその家族が住む御内原と呼ばれた「生活・儀礼の空間」です。
これらの各区域の内、「生活・儀礼の空間」の多くが未だ非公開となっており、整備が待たれるところです。