浜 松 城

静 岡 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


静岡県浜松市中区
出世城
梯郭式平山城
1504年~1520年
今川貞相
徳川家康
石垣、曲輪
なし

2010年5月3日

【浜松城築城の経緯】
永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。
天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。

【築城様式】
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。
「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。

【家康の在位期間にあった戦い】
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。

【家康が去った後の浜松城】
徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。
歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。
明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。

【三方が原の合戦】
三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。

武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。 合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。

【小豆餅と銭取】
浜松市内には、三方ヶ原の合戦にまつわる地名が残っています。たとえば、「合戦に敗れた家康軍は逃げ帰る途中に空腹をおぼえ、1軒の茶屋に寄って小豆の餅を食べていました。そこへ追ってきたのが武田軍。家康は慌てふためき代金も払わず茶屋を飛び出しました。驚いた茶屋の老婆は、数キロ先まで追いかけて、代金をもらうことに成功しました」…そんなことから、この茶屋のあった場所を「小豆餅(あずきもち)」、老婆がお餅の代金を受け取った場所を「銭取(ぜにとり)」と呼ぶようになったそうです。

【出世城の言われ】
浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。


若き日の徳川家康公の像です
 


元号(西暦/家康年齢)戦いの名称
元亀元年(1570年/29歳)姉川の合戦
元亀三年(1572年/31歳)三方ヶ原の合戦
天正三年(1575年/34歳)長篠の戦い(設楽原の合戦)
天正九年(1581年/40歳)高天神城の攻略
天正十二年(1584年/43歳)小牧・長久手の戦い