高 島 城

長 野 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


長野県諏訪市高島1丁目20番1号
諏訪の浮城、島崎城、諏訪高島城
連郭式平城
1592年
日根野高吉
諏訪忠粛
門、石垣、堀
なし
天守、櫓、門、塀
2011年4月30日

1590(天正18)年、当時の諏訪領主、諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉が諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。
転封の翌年、1591(天正19)年にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌1592( 文禄元)年に着工、1598(慶長3)年まで7年ほどかかって高島城を築城。
城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。

冠木橋から冠木門

その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。
しかし1871(明治4)年、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定。1875(明治8)年には天守閣の撤去が終了。翌1876(明治9)年、本丸跡が高島公園として一般に開放されました。
諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、1970(昭和45)年、天守閣が復興されました。
同時に、冠木門、角櫓なども復興されたほか、当時の石垣の一部も残るなど、今も往時を偲ぶことができます。

冠木門

〈築城当時の高島城〉
本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、水を守りとする難攻不落の水城でした。
天守閣は屋根に瓦ではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺き(こけらぶき)という珍しいもので(復興後銅板葺き)、これは諏訪の寒冷に堪えられる瓦が調達できなかったためと言われています。
また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積(のづらづみ)でした。
1786(天明6)年の大掛かりな補修によって大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。

角櫓

〈本丸〉
三層の天守閣と城主の御殿や書院、政務をとる御用部屋、郡方、賄方。その他、能舞台、氷餅部屋など多くの建物がありました。(現在の高島公園)
〈二之丸〉
家老の二之丸屋敷、職人が詰めて働く御作事屋、貯銭蔵、馬場などがありました。6代忠厚の時に起こった「二之丸一件」で二之丸屋敷は取り壊され、藩校「長善館(ちょうぜんかん)」が建てられました。
〈三之丸〉
三之丸御殿、家老の三之丸屋敷、藩の会計を預かる御勘定所などがありました。また、8代忠恕の時、凶年の窮民救済のための貯米倉庫「常盈倉(じょうえいそう)」が建てられました。

本丸

本丸から天守閣を見上げる

天守閣

天守閣から本丸を望む

天守から南方面

天守から西(諏訪湖)方面

天守から北(大手門)方面

天守から北東方面

天守から東方面

冠木橋から天守

堀に影を映す天守

三之丸御殿裏門(川渡門)

土戸門跡

地元の温泉給湯口

道祖神に御柱

堀の石垣(野面積み)

野面積の石垣

石垣

角櫓と天守

堀の石垣

本丸内に建つ諏訪護国神社

◆諏訪鉄平石  ・・・市役所駐車場の隅にありました
この参道橋は、「鉄平石」の一枚岩で作られています。
名前の由来は、鉄のように硬く平らな石という意味からきています。
霧ケ峰周辺で産出された石を「諏訪鉄平石」と呼びます。諏訪鉄平石は特に品質がよく、諏訪には高い石工技術をもつ職人もおり、日本全国で多くの乱貼りや小端積み門柱、石塀、敷石、建築物の外装などに利用されています。
色調は灰色~灰青色薄小豆色で斜長石や輝石の班晶が特徴的な石材です。
(諏訪商工会議所青年部)