長 浜 城
滋 賀 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
滋賀県長浜市公園町
今浜城
不明
1573年
羽柴秀吉
伊部町組(現在の元浜町)ほか
石垣、堀
市指定史跡
模擬天守
2013年5月4日
織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。
翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。
天守閣への石段
天正10年(1582)信長亡きあとの清洲(きよす)会議で長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)の甥の勝豊(かつとよ)が城主となりました。 しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。
その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)、内藤信成(ないとうのぶなり)、内藤信正(ないとうのぶまさ)を城主に迎えました。
豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。
今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城の遺構であると言われています。
現在の長浜城は、昭和58年(1983)に市民の熱意と寄付金などで建設され、内部を歴史博物館として開館しました。
本丸跡
本丸からの天守閣
旧長浜領境界碑 長浜領内は年貢免除でした
「これより東 長浜領・これより南 長浜領」とあります
天守台から
長浜城石垣根石
天守から西方
天守から南方 彦根城が見えます
天守から東方 中央に宿泊したホテル
天守から北方 昨日登った小谷城跡(小谷山)
長浜城天守閣跡
豊臣秀吉像
太閤井戸
【秀吉と長浜】
湖北は、室町時代末期から安土桃山時代にかけて、織田信長、豊臣秀吉の天下統一への戦乱のなかに巻きこまれていきました。
とくに長浜は、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点であり、彼の城下町経営の基本パターンを醸成したところでもあります。