高 田 城

新 潟 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


新潟県上越市本城町
鮫ケ城・関城・高陽城
輪郭式平城
1614年(慶長19年)
松平忠輝
松平光長
土塁、堀
県指定史跡
三重櫓
2014年6月21日

◆松平忠輝の入封

武慶長3年(1598)春日山城主上杉景勝が会津に転封となり、代わって越前北ノ庄(福井市)城主堀秀治が入封しました。堀氏によって福島城が築城されましたが、同15年(1610)に御家取り潰しとなり、松平忠輝が信濃国川中島から入封しました。忠輝は徳川家康の六男であり、徳川と豊臣の抗争が激化する中で、豊臣家の重臣前田利常を牽制するため、交通の要衝である福島城に置かれたものと推定されています。

高田駅前

◆忠輝、菩提が原に高田城を造る

忠輝は慶長19年(1614)に天下普請(幕府の命による工事)として高田城築城に着手しました。普請には上杉景勝(出羽米沢城主)前田利常(加賀金沢城主)など13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅伊達政宗が就任しました。築城された場所は、高田平野の中央よりやや西に寄った地点で、当時は菩提が原と呼ばれていました。地形を見ると、自然堤防の周りに蛇行していた河川を利用して外堀を形成するなど、関川の自然堤防を巧みに利用していることがよく分かります。

高田城の大手橋跡

◆築城期間は4ケ月

高田城の普請で特筆すべきことは、竣工までの期間の短さです。諸説はありますが、慶長19年3月15日に着手し、7月上旬には一応の完成を見ています。外堀を含めると60haを優に越える城郭が、約4ヶ月で出来上がった背景には、大阪の陣を控えて、豊臣の重臣を牽制し江戸の背後を固めたものといわれています。

幅が広い西堀 ハスが一面に

◆高田城二つの特徴

平城の高田城には、二つの特徴があります。一つは天守閣が築造されなかったこと、二つ目は石垣が積まれず、全体に土塁をめぐらせていることです。その理由は、豊臣家と決戦を間近に控え、完成を急ぐ必要があったからだと考えられています。築城当初の櫓は二重の櫓でしたが、寛文地震のあと、三重の櫓に生まれ変わりました。また近代には二の丸、三の丸の土塁がすべて撤去されてしまいましたが、本丸の土塁は築城当時の威容を400年が経過する現代に伝えて、高田城の見どころの一つとなっています。

西堀に架かる西堀橋

◆城下町の様相

高田城下の街並みは、北と南から北国街道(奥州道・信濃道)を、そして西から北陸道(加賀街道)を引き込んで、碁盤目のように整然と町割りされています。城を最も東に配置して関川で囲い、城の西に接して家臣団の屋敷を構え、町人はその西にほぼ南北に走る北国街道に沿って街を形成しています。最も西には寺を2列に並べて寺町を形成しましたが、この寺町は現在でも66もの寺が現存し、日本でも有数の寺町といわれています。

二の丸跡

二の丸跡

本城堀を渡る穴門沈橋跡

本丸への通路

本丸跡

発掘調査を進める本丸跡

本丸跡

三の丸跡付近の本城堀

本城堀に架かる極楽橋

極楽橋

再建された三重櫓に登る

三重櫓から番所方面を俯瞰

大手堀と左手遠くの野球場になっている瓢箪曲輪

◆高田城三重櫓の再建

現代によみがえった高田三重櫓は、多くの市民要望に応え、上越市発足20周年記念事業として建設しました。
築造に当たっては、絵図や古文書の検討、発掘調査など詳細な調査・研究を行い、設計に活かしました。

規模は、稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考としました。
このような史実に基づいた木質構造建築による復元は、本物志向の時代の要求にあった再建理念として、今後の城郭建築に新たな方向性を示したものとされています。