米 子 城
鳥 取 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
鳥取県米子市久米町
久米城、湊山金城
梯郭式山城
1470年(文明2年)頃
山名氏?
吉川広家、中村一忠
石垣
国の史跡
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2015年6月8日
米子市の中心地、標高90mの湊山に築かれた米子城は、別名「久米城」とも呼ばれ、山陰地方で他に先駆けて築かれた本格的な近世初期の城郭です。山頂に五重の天守閣と四重の副天守閣(四十櫓)の大小二つの天守を持つ壮麗な城で、周囲には二重の堀が巡らされていました。
当時の建造物は全て失われてしまいましたが、石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめ、また、文献や絵画資料なども数多く良好な状態で伝えられており、平成18年に国史跡に指定されました。
現在、湊山周辺は「湊山公園」として市民の憩いの場として利用されており、西伯耆を一望できる天守台からの眺望は、今尚、多くの人々から親しまれています。
米子城入口の枡形
【米子城の歴史】
米子城は、応仁から文明年間(1467~1487)に、山名宗之によって砦として飯山に築かれたのが始まりと伝えられています。
現在「城山」と呼ばれている湊山の本格的な築城は、西伯耆の領主となった吉川広家が天正19年(1591)に築城を開始したものといわれます。しかし、慶長5年(1600)の関が原合戦に敗れた吉川氏は完成した城を見ることなく岩国へ国替えとなり、代わって伯耆国18万石の領主として封ぜられた中村一忠によって、慶長7年(1602)頃に完成されました。
一忠の急死により中村氏が断絶すると、会見・汗入6万石の領主として加藤貞泰が入城し、元和3年(1617)には、鳥取藩主池田光政の一族、池田由之が米子城預かり3万2千石となります。寛永9年(1632)には、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城を預かり、以後11代に亘って荒尾家が米子の政治を執り行いました。明治2年(1869)、米子城は士族に払い下げられ、全ての建物が取り壊されました。
枡形の内部 かなり広い枡形です
旧小原家長屋門 小原氏は米子荒尾家の家臣
番所跡から本丸の石垣を見上げる
番所跡を見下ろす
段々に積まれた本丸の石垣
番所跡
番所方面を振り返る
鉄門跡へ向う
鉄門付近
天守台から番所方面を見下ろす
五天守台から中海を見下ろす
本丸の天守台
水手御門へ抜ける門の跡 名称は不明です
遠見櫓跡
本丸の石垣
内膳丸への階段
内膳丸
内膳丸はとても広い曲輪です
内膳丸から正面に天守台