墨俣一夜城

岐 阜 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
一夜城
平城
不明(1561年/1566年)
不明(木下秀吉か)
伊木忠次
なし
大垣市指定史跡
模擬天守(資料館)
2016年3月27日

永禄9(1566)年、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられている墨俣一夜城は、藤吉郎が「天下人」となる出発点として、全国にその名が知られています。この城跡と思われる地に当時の砦的な城ではなく、地域住民の永年の夢であった一般的な「城郭天守」の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が大垣城をモデルに建設されました。
史実については、太閤記や断片的資料で概要を知る程度でありましたが、昭和52年(1977)に、愛知県江南市の旧家より代々伝わる前野家古文書の中から、墨俣一夜城に関する貴重な資料が紹介され、墨俣一夜城といわれる理由が明らかになってきました。

菜の花が咲く対岸から

もともと川の中州に斎藤利為らが築いた洲股要害として機能していたようですが、尾張から美濃へ侵攻する重要拠点であることから、度々合戦の場となっていました。
永禄4年(1561)には、美濃の斎藤勢の要害を織田信長が攻略し「洲俣要害」を改修して在陣したと信長公記に記されています。
織田信長の命で、最初に佐久間信盛が洲股砦城の建設に挑みますが失敗。柴田勝家も失敗し、木下藤吉郎が「7日で完成させる」と言上しました。藤吉郎は、美濃勢を伏兵奇計で撃退しながら、砦城の建造を行い、永禄5年(1562)6月中旬頃、雨で戦闘が中断している中、上流から流した材木を組み立てると、一夜にして墨俣城を完成させたという逸話です。

犀川を橋で渡ります

これらの内容は、議論が分かれるところで、藤吉郎に協力して墨俣城を築いたとされる蜂須賀小六の資料にも一夜城の記述が無いことから、一夜城の逸話は江戸時代に作られた創作であり、藤吉郎が一夜城そのものを築かなかったとする説もあります。
いずれにしても、当時の武将たちにとって大きな川3つに繋がるだけでなく、街道も通る重要な拠点として位置付けれれていたことは事実です。
その後、1584年に小牧・長久手の戦いの前に、当時美濃を支配していた池田恒興の家臣・伊木忠次が墨俣城を改修しましたが、1586年6月の木曽三川が大氾濫して墨俣城は流され、木曽川の流路が変わってしまい、戦略上の重要性が低下したため、墨俣城は廃城となりました。

橋の袂では豊臣秀吉の胸像が出迎えてくれます

資料館の内部を見学します

最上階に上りました

犀川の下流方面です

長良川の上流方面です

墨俣砦城の模型です

整備前の昭和の城跡

永禄9年斎藤勢の騎馬を防ぐために築いた藤吉郎の馬柵(再現)

太閤秀吉「出世の泉」

資料館を裏手から

豊臣秀吉が、出世するきっかけとなった「墨俣一夜城跡」を見学しましたが、当時築城された姿とは、全く違う形に作られていて、個人的には残念に思います。
竹下内閣時代の「ふるさと創生資金」を基に造られたとのことですが、前出の前野家資料などをもとに、当時の城跡を再現した青森県の根城のようなものであったら、なお更興味深く見学できたのかも知れません。