富 山 城

富 山 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


富山県富山市丸の内
安住城、浮城
梯郭式平城
1543年(天文12年)
神保長職、水越勝重?
佐々成政、前田利次
石垣、堀
国の登録有形文化財
模擬天守
2016年5月19日

【中世】
天文12年(1543)、神保長職(ながもと)によって築かれた富山城。そして、富山城をめぐり繰り広げられる一向一揆や、上杉謙信、武田信玄ら戦国武将たちの攻防。織田信長の家臣として入城した佐々成政。天正13年(1585)、豊臣秀吉の征討をうけ、破却された富山城。中世の富山城は、築城以来、様々な勢力の争奪の場でした。
【近世】
近世の富山城を整備したのは前田利長です。大火で焼失した後、元和元年(1615)の一国一城令により一旦廃城となります。寛永16年(1639)の富山藩分藩に伴い、初代藩主前田利次が入城します。その後、明治時代に至るまで、富山前田家13代の居城となりました。江戸時代後期には千歳御殿が築造されるなど近世の富山城は、藩政の中心として整備が進められました。
【近現代】
明治6年(1873)に廃城となり、解体と同時に新たな街並みへと変貌を遂げていきました。
昭和29年、戦災復興事業の完了を機に、富山城址一帯で富山産業大博覧会が開催され、その際、記念の恒久建築物として富山城天守閣(郷土博物館)が建設されました。

千歳御門(埋門) 富山市指定文化財
千歳御殿の正門で寛永二年(1849)の建築


門の間から天守閣が見えます

本丸跡です 公園として整備されています

模擬天守閣(富山市郷土博物館)

築城時の石垣の石材を展示してあります

石垣の刻印がはっきり確認できます

本丸の千歳御殿があったあたり

井戸の跡

天守閣から

天守閣から本丸を見下ろす

千歳御門の瓦葺き

四季農耕蒔絵杯

銀鯰尾形兜(ぎんなまずおなりかぶと)


加賀藩二代目藩主の前田利長が用いていたと伝えられている兜です。この兜の高さは、140センチメートルくらいあるそうなので、実戦には向かないような気もするのですが…?
首が折れてしまいそうです。


大手升形石垣の鏡石と笑積み 3m以上ありそうです

三の丸から堀を隔てて天守閣を見る

西の丸跡

景雲橋

本丸北側の堀

東出丸入口

東出丸の石垣

河原石積み


富山城の石垣の積み方は、大きく3種類があります。
第一は、濠面側に多く残る乱積みによる打込接(はぎ)という積み方で、未加工の割石を積むものです。
第二は、大手升形石垣の通路側に見られる布積みによる打込接という積み方で、割石を粗く割って方形状に整えた粗加工割石を積むものです。
第三は、割らない河原石をそのまま積む野面積で、搦手升南側石垣の内側に主として残っています。河原石積みは明治以降のものとみられ、記録はありませんが、昭和29年の富山産業大博覧会の際の工事とみられます。

前田正甫(まえだまさとし)公像


前田正甫は、富山藩初代藩主・前田利次の次男で、二代藩主です。
藩政において父利次の方針を方針を受け継いで藩制の確立に努め、文武を奨励して多くの有能な人材を招聘しました。
金沢藩の支藩で豊かではなかった藩を、新田開発や治水工事を行って生産力を向上させたり、その他の殖産興業に努め藩財政を豊かにしようと努力し、越中売薬の基礎も作った。