勝 連 城

沖 縄 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日


沖縄県うるま市勝連南風原
なし
山城
12世紀~13世紀
伝・茂知附按司

石垣、郭
国の史跡、世界遺産

2017年1月11日

勝連城は、四方に眺望のきく比較的傾斜の急な孤立丘を取り込んで築かれており、外敵をいち早く確認できることや、南側に良港を控えていることなど、極めて良好な立地条件を備えています。城は四つの曲輪からなり、各曲輪は珊瑚質石灰岩の切石を使って曲線状に築かれています。
一の曲輪は最高所に位置し、瓦葺きの建物やアーチ式の門があったと伝えられています。
二の曲輪には東西14.5m、南北17m規模の舎殿跡があり、覆土によって遺構を保存しています。西側には、抜け道の伝説がある「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴があります。
三の曲輪は、儀式などを行う広場と考えられています。また、三の曲輪の門は木造の四脚門があったと推測されます。

西原御門方面から四の曲輪に向かう従来の登城道ですが、現在は立ち入りが禁止されています。

四の曲輪には、南西側に南風原御門、北東側に西原御門と呼ばれるアーチ式の門があったと伝えられ、さらに五ヶ所の井戸と建物跡を推測させる礎石もあります。また、四の曲輪の南東側の一段高くなった箇所は、別名「東の曲輪」と呼ばれ城壁が巡り、水場を確保するうえで、軍事的に重要な箇所でした。
このような城には、政治の安定を願い、按司の威厳を維持する守り神として、「コバツカサ神」「火の神」を祀った拝所があります。「コバツカサ神」は、一の曲輪の中央部にある円柱状に加工された岩(タマノミウヂ嶽)に祀られており、現在でも多くの人々が参拝に訪れます。三の曲輪には「イシヅカ神」、通称「肝高の御嶽(うたき)」があり、その横にはノロ(神女)が城拝みに来た時に休息する座石(トゥヌムトゥ)があります。

防御田地 かつて付近一帯は「底なしの沼」と言われるほど、水量豊富な湿地帯でした。

四の曲輪です

マチダ・ナケージガー 御嶽(聖地)の中でも特別な場所です

三の曲輪の石垣です

ウタミシガーと呼ばれる水量で豊作・凶作を占う泉です

ミートゥガーといい男女の逢瀬の場と伝えられる泉です

野面積みの石垣です

三の曲輪への石畳道を登ります

三の曲輪城門です 四脚門(藥医門)と考えらえます

三の曲輪は儀式などを執り行う広場として使われました

神人たちが祭祀の際に休憩したトゥヌムトゥという石列です

二の曲輪基壇 建物の基礎になる石や土で一段高くした場所

二の曲輪では、舎殿跡が発見されています

ウミチムン(火の神) 琉球古来の信仰で火の神が祀られます

ウシヌジガマには「身を隠し凌ぐ」という意味があります

舎殿の礎石が再現されています

一の曲輪階段は有事の際の最終防護ラインです

一の曲輪です

一の曲輪から二の曲輪と三の曲輪を見下ろします

玉ノミウヂ御嶽 守り神を祀った拝所です

一の曲輪からのオーシャンビュー

勝連城は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利(あまわり)が住んでいた城です。阿麻和利は、国王の重臣で中城に居住した護佐丸を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里城を中心とする中山の王権は一段と安定しました。
勝連城における発掘調査では、中国製や日本製の陶磁器類が多量に出土しており、阿麻和利をはじめとする城主が海外との交易を活発に行われていたことが推測されます。これらの出土品から、勝連城は12~13世紀に築城されたものと考えられます。

四の曲輪に下ります

口碑伝承では、初代城主は英祖王系・大成王の五男であったといわれています。その後、勝連按司は四代続き、六代目に世継ぎができないことから養子縁組により伊波グスクの伊波按司の六男が迎えられています。
続く七、八代目は交代の理由は判りませんが、浜川按司になっています。そして九代目は茂知附按司となります。しかしこの按司は圧政を敷き、酒に溺れたことから、人々の信頼の厚い阿麻和利によって倒されます。彼が十代目の城主となって、勝連はますます栄えることになったとあります。

三の曲輪の城壁は自然の岩を上手く利用しています

阿麻和利については諸説ありますが、一説によると北谷間切屋良(嘉手納町)で生まれ、小さい頃は身体が弱く、山に捨てられたといわれています。ひとりで生きていく中で、知恵と力をつけ、勝連に流れ着いたときには、村人たちに漁網みをつくったりして、慕われるようになりました。やがて茂知附按司に取り立てられ、計略を用いて、勝連の按司の座を奪い取ったといわれています。
若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力を付けました。時の琉球国王尚泰久は、阿麻和利に脅威を持ち、自分の娘、百十踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。

グスク全体の模型です