唐沢山城
栃 木 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
栃木県佐野市富士見町、栃本町
栃本城、根古屋城、牛ヶ城
連郭式山城
927年(延長5年)
藤原秀郷
佐野成俊、佐野盛綱
石垣、大手枡形、土塁、縦堀、
堀切、土橋、復元井戸
国の史跡
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2019年3月26日
平安時代の末から佐野庄を統治した佐野氏が築いた唐沢山城は、標高242mの急峻な山頂を本丸として広範囲に城造りの跡が残っており、国指定史跡の面積は194haにのぼる大規模なものです。山頂付近では、各方面に延びる尾根上に曲輪がいくつも配置されています。本丸跡には、西側に虎口があり、城門の礎石も残っています。本丸や南城周辺では、400年以上前に築かれた高さ8mを超える貴重な高石垣が訪れる人を出迎えてくれます。これらの石垣を多用した中心部から周辺部に目を向けると、唐沢山城は、土づくりの時代があったことを示す堀や土塁が山内に広がっており、戦国各期に手がけられたいにしえの城の様子を偲ぶことができます。
築城の時期については、藤原秀郷が天慶5(942)年に築いたとする伝承もありますが、現在のところ、この時代の資料や跡は確認されていません。関東地方では、応仁の乱に先駆け享徳の乱が勃発しましたが、古河公方足利氏と関東管領上杉氏の対立による戦乱の中、各地の領主が防衛のために多くの城を築いていきました。僧侶が記した文明3(1471)年の日記に「天命の上の山 佐野城」に関する記述があり、この頃、天命の上に山城がすでに築かれていたことがわかります。唐沢山城は、佐野城と呼ばれていたようです。
天狗岩への登り口
唐沢山城は、要衝の地にあるため、関東制覇をもくろむ小田原の後北条氏や越後の上杉氏から度々攻められました。上杉謙信が佐野氏を配下にした時期には、重臣を唐沢山城に置いたこともあります。その後、謙信が死去し城主佐野宗綱が彦間で討死すると、北条氏忠が婿入りし唐沢山城を乗っ取りました。天正18(1590)年、城主の子で豊臣秀吉側近にもなった天徳寺宝衍(ほうえん)が城を奪還し、秀吉の重臣富田氏の子信種を養子(佐野信吉)として城主に迎えました。本丸周辺の高石垣は、信吉の時代に築かれたと考えられます。このように唐沢山城は、関東戦国史の中でもまれに見る争奪の舞台になり、各氏による城普請が繰り返され、大規模で堅牢な城へと造られていきました。
天狗岩からは展望が開けていました
くい違い虎口
武者詰の桜です
大手道を進みます
竜神宮の祠です
大井 直径9m、深さ8m以上の大きな井戸
四ツ目堀に架かる神橋 かつては曳橋
大手道の階段は神社の参道整備で作られた
さくらの馬場 馬の訓練場所
小さな石を積み上げた石垣がありました
本来の大手道です
南城跡の石垣です
南城跡の石垣です
南城です
南城は展望が開けています
本丸への階段は神社のために整備されたものです
本丸の高石垣です
本丸の高石垣です
二の丸へ向かいます
二の丸から本丸への階段です
二の丸の神社施設
二の丸から士屋敷への虎口
本丸の大きな石垣
本丸跡です
本丸には唐澤山神社が建ちます
三の丸跡
三の丸跡
三の丸から帰路につきます
四つ目堀の上部です