河後森城
愛 媛 県
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
愛媛県北宇和郡松野町松丸
川後森城
山城
伝・1196年(建久7年)
渡辺氏
伊達氏
石垣、土塁、堀切、門(永昌寺)
国の史跡
門、建物
2019年6月18日
河後森城は、戦乱の時代、伊予(愛媛)と土佐(高知)の国境の要所として築かれた中世の山城です。
広見川、鰯川、堀切川の3本の川に囲まれた独立丘陵上にあり、城域は20ha以上の規模を誇ります。
本郭を中心に大小様々な曲輪が馬蹄のようなU字型に広がっています。
石垣の上に築かれた江戸時代以降の城と違って、中世の城は土づくりの城が多く、元々の地形を利用して岩盤を削り、土を盛って城としての防御性を高めているのが最大の特徴です。
16世紀この地域周辺は、土佐一条氏と長宗我部氏の度重なる戦闘の舞台でした。当時の城主として文献資料に登場するのが、土佐一条氏からの養子、河原淵教忠(ノリタダ)です。
1584(天正12)年頃まで、この地域は長宗我部氏の配下となった可能性が高く、翌年の秀吉による四国平定後、松野町を含む宇和郡一帯は小早川氏、戸田氏、藤堂氏、冨田氏の所領となり、その間それぞれに城代が置かれていました。
藤堂氏の時代には河後森城の天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移築されたとも伝えられています。
風呂ケ谷までは平坦です
井戸跡があるようです
直径2mほどの井戸です
ここから登り始めます
風呂ケ谷が見えます
西第十曲輪への門です
西第十曲輪には掘立柱建物があったようです
この曲輪からの眺望です
土塁跡です
西第十曲輪は最前線防御施設であったようです
西第七曲輪から西第十曲輪方面を見下ろします
西第六曲輪を回り込みます
手前が西第五曲輪で、奥が西第六曲輪です
第四、第三と回り込んでいきます
西第三曲輪と西第二曲輪の間の堀切です
堀切は保護のために土嚢が積まれて浅くなっています
西第三曲輪と奥は西第四曲輪です
西第二曲輪に登ります
西第二曲輪に出ました
西第二曲輪から本格郭に向かいます
本郭の石垣と堀切です
本郭です
本郭からの眺めです
三角の山は河後森城の支城のようです
古城へ向かいます
東第二曲輪の横を進みます
東第三曲輪です
東第四曲輪と堀切です
堀切に設けられた門です
敵が侵入しにくくするため斜めに作られています
古城第二曲輪です
古城と建物跡です
古城からの眺めです 支城が見えます
新城へ向かいます
新城に着きました
新城から本郭などの曲輪が望めます
新城から登城口に下っていきます
風呂ケ谷まで戻ってきました
良く整備された素敵な山城でした