鶴ケ岡城

山 形 県


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構
指定文化財

再 建 造 物
訪 問 日


山形県鶴岡市
大宝寺城、大梵寺城
輪郭式平城
鎌倉時代初期
大泉氏(武藤氏)
直江兼続、最上義光、酒井忠勝
土塁、石垣、堀、藩校、庭園
国の史跡(藩校)、
国の名勝(三の丸庭園)

2019年10月22日

鶴ケ岡城は古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した武藤氏の居城でした。
天文年間(1533年頃)兵火のため武藤氏は大山の尾浦城に居を移し、当城はその枝城となりました。
天正15年(1587年)武藤氏が滅び庄内は越後の上杉氏、次いで慶長6年山形の最上義光の支配するところとなりました。慶長8年(1603年)大宝寺城は、義光の隠居城として修復され鶴ケ岡城と改称しました。
元和8年(1622年)最上氏が領地没収となり、その後信州松代から酒井忠勝が入国、庄内14万石の居城として整備拡充されました。
酒井氏は徳川幕府の譜代大名として明治4年まで約250年間庄内を治めます。戊辰戦争にて新政府軍と戦い降伏します。
明治8年(1875年)、鶴ケ岡城解体。本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられました。
今では公園のお堀と土塁、お城稲荷の森に僅かに当時の面影が偲ばれるにすぎません。 【鶴ケ岡城案内看板より】

鶴ケ岡城復元図 入口案内板から

大手道と思われます

大手門辺りです

大手御門跡です

大手御門の復元図が掲示されていました

堀は現存しています

本丸は荘内神社が建ちます

荘内神社は藩主を慕う人々によって生まれました

鶴ケ岡城本丸御殿では地下水を汲み上げていました

本丸内北門跡です

本丸隅櫓跡です

本丸から内堀を渡ります

内堀です

堀を挟んで見た本丸隅櫓跡です

本丸隅櫓の復元図が掲示されていました

二の丸跡です

二の丸西門跡です 外堀に面しています

内堀の対岸に靖国神社が建ちます

本丸へ渡る中ノ橋跡です

致道館(藩校) 藩主の出入り口の表御門です

廟門をくぐると聖廟です

聖廟は孔子と願淵の聖画を祀るところです

西御門は藩の重臣や教官の出入りの門です

講堂です

致道館の額縁が飾られています

御元〆詰所跡からの講堂です

藩主臨校の居間である御入りの間に面する庭です

鶴ケ岡城三の丸に建つ致道博物館 旧西田川郡役所

旧鶴岡警察署庁舎

鶴岡市のマンホールの蓋

赤いドームと白壁が特徴の大宝館 大正時代の建築