広 島 城
広 島 県
2019年5月20日の訪問は
ココ
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
広島県広島市中区基町
鯉城、在間城、当麻城
輪郭式平城
1589年
毛利輝元
福島正則
石垣、堀
国の史跡
大天守、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓、
表御門
2015年6月9日
【城地の選定と築城】
毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日鍬入れ式を行ないました。
築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。
三の丸から二の丸への御門橋
【城下の整備】
慶長5年(1600)の関が原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ヶ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。
しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備をとがめられた正則は元和5年(1619)に安芸備後二ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までのおおよそ250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。
表御門
【明治以降の広島城】
廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿も焼失し、大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同33年(1958)に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。
以上広島城パンフレットから転写
二の丸から表御門 左側は平櫓
太鼓櫓と多聞櫓
番所跡
馬屋跡
本丸へ
中御門跡
本丸
二十七八戦役廣島大本営
旧天守閣の礎石 天守閣再建時に移設しました
天守閣が見えてきました
西小天守跡
天守閣へ入ります
鯱の展示(実物)
天守閣から東方面
◆中央に原爆ドームが見えます/p>
天守閣を正面から
表御門から三の丸へ戻ります
三の丸と本丸との間の堀
堀を隔てて天守閣 かっこいいです