松 山 城

愛 媛 県
2019年6月の訪問は ココ


所 在 地
通   称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺   構

指定文化財

再 建 造 物
訪 問 日


愛媛県松山市丸之内1
金亀城、勝山城
連郭区式平山城
慶長7(1602)年、寛永4(1627)年
加藤嘉明
松平勝善
現存天守、櫓、門、塀、井戸、石垣
土塁、堀
国の重要文化財、国の史跡
小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓
太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門など
2013年12月8日

関が原の戦い(1600年)で功績のあった加藤嘉明が伊予20万石を与えられ、1602年から標高132mの勝山に松山城の築城が開始されました。しかし、完成直前の1627年2月に嘉明は会津へ転封されます。その後入城した蒲生氏郷の孫、蒲生忠知が二之丸を完成させましたが、1634年参勤交代の途中で急死し、子が居ないため断絶してしまいます。
その後に入城した松平定行が伊予15万石を封じられ、1639年から3年の歳月を掛けて、築城当時五重であった天守を三重に改築します。ところが、9代松平定国(徳川吉宗の孫)の代の1784年に落雷により焼失しました。その後、何度かの火災などの苦難を乗り越えて、安政元年(1854年)に再建完成した天守が、現在、日本に12箇所現存する天守の一つとなっています。松平家は明治維新まで235年続きました。

長者ヶ平 ロープウェイ駅前広場です

明治3年(1870)三之丸全焼、同5年二之丸を焼失します。
大正12年(1923)久松(旧松平)定謨伯が城郭を松山市に寄贈しますが、10年後に放火により小天守、南北隅櫓や多聞櫓などを失ってしまいます。昭和に入ってからは戦火で乾門なども焼失してしまいます。
昭和33年(1958)の馬具櫓の復興を皮切りに、小天守、南北隅櫓、多聞櫓や十間廊下など数多くの建造物を復興し現在に至っています。
姫路城と同じく、天守、小天守や櫓を渡り廊下で連結した連立式で、日本三大連立式平山城に数えられています。

東雲道の登城口

東雲口登城道

石垣が見えてきました

揚木戸門跡付近です

揚木戸門は築城時に建てられた重要な門でした

二之丸からの登城口と東雲道からの登城口の合流点に警備のために設けられた待合番所跡

大手門跡 二之丸、三之丸に通ずる重要な門

太鼓櫓の左下には中ノ門跡 ニセの通路なのだそうです

戸無門と筒井門西続櫓

左手前が筒井門入口で奥に隠門

筒井門(重要文化財)

戸無門を通過し筒井門に迫る敵を側面から急襲するための隠門と隠門続櫓(ともに重要文化財)

太鼓櫓、太鼓門西塀と太鼓門南続櫓

巽櫓

太鼓門と太鼓門南続櫓

太鼓門の内側 太鼓門南続櫓

井戸

本丸 広いです

連郭式で荘厳な松山城

左から南隅櫓、小天守、大天守と一ノ門南櫓

正面に大天守

右折して一ノ門をくぐります

一ノ門

二ノ門

三ノ門

天神櫓南塀の先に天神櫓

筋鉄門をくぐり中庭に

内門の右側が天守への入口

木造の天守は素敵です

天守の内部

石落とし

天守から三之丸方面を見下ろす

多聞櫓から北隅櫓と玄関、内門

多聞櫓から見る大天守

大天守

仕切門

天神櫓 天守の外郭へ移動します

紫竹門

乾門

乾門

乾櫓

乾門の外部から

北隅櫓、十間廊下、南隅櫓の向こうに大天守

艮門(うしとらもん)と艮門東続櫓