大内氏館
山 口 県
高嶺城は
ココ
所 在 地
通 称
城郭の構造
築 城 年
築 城 者
主な改修者
遺 構
指定文化財
再 建 造 物
訪 問 日
山口県山口市
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城館
14世紀~15世紀中期頃?
大内弘世?、大内教弘?
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国の史跡
西門、庭園、石組溝など
2019年4月9日
大内氏24代の弘世が正平15年(1360)頃それまでに館があった大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。
大内氏は弘世以後、歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方までおよんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の反乱により滅亡しました。その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立しました。
館は、百閒四方の堀と土塁に囲まれた中に造られたと言われています。現在は、ほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に土塁の一部を見ることができます。
正方形の地形をした大内氏館跡
ここから大内氏館の探勝を始めます
龍福寺の鐘楼です
重要文化財の龍福寺本堂です
池泉庭園です
石組井戸跡です 直径約1.2m、深さ約4m
建物基壇跡など発掘調査後に埋め戻されています
池泉庭園から鴻ノ峰が望めます
石組かまど跡です
塼列建物跡です 蔵だと考えられます
水路跡です
堀を渡る橋が架かっていたようです
北東角部分の土塁です 幼児の遊び場になっています
土塁の切れ間です 出入り口のようです
再現された枯山水庭園です
南西側の土塁です
高嶺城跡がある鴻ノ峰です
築山館跡を見学します
八坂神社です
筆曲組歌発祥之地の碑です
盃状穴(はいじょうけつ)が刻まれた巨石です
築山神社はかなり老朽化が進んでいました
北西隅にかぎの手に残った土塁です